アギーレ 神の怒り (1972)

directed byヴェルナーヘルツォーク
starringクラウスキンスキー
1930年代から60年代にかけて、ドイツ映画はあまり国際的に注目されてはいなかった。60年代になってようやくオーバーハウゼンマニフェストを発し、”ニュージャーマンシネマ”と称された数々の映画が生まれてくることになる。

しかし、フレンチニューウェーブよりも少し遅れて登場したこのニュージャーマンシネマは、アメリカで浸透するのに時間がかかった。トリュフォーやゴダールといったフランス映画のセンスの良さや、フェリーニのユーモア、遊び心、といったようなわかりやすい目印がニュージャーマンシネマにはなかったのだ。ゴダールやフェリーニのような難解さはない。しかし、ニュージャーマンシネマの暗さや皮肉は、いったん理解するとジワジワと味が出てくる。

ファスビンダーやヴェンダースと時を同じくして登場したのが、「アギーレ 神の怒り」の監督ヴェルナーヘルツォーク。ドキュメンタリーもフィクションも作るヘルツォークの作品は、近年ますますその境目がわからなくなっている。ドキュメンタリータッチのフィクションなのか、それともドキュメンタリーなのか?そんな境界は始めからなかった、とでも言いたげな作風である。

この「アギーレ」は、ヘルツォーク映画におなじみのクラウスキンスキーが、幻の黄金郷・エルドラドを求めてさまよう物語。話は大しておもしろくない。そう、ひねりがない。しかし、ヘルツォークのすごいところは、役者を最大限に生かすところ。クラウスキンスキーの顔を見て欲しい。強烈だ。野望のために人を無駄死にさせる冷血漢を、他に誰が演じられるだろうか?実際にヘルツォーク自身が、キンスキーのことをこう呼んでいる。

"the only true demon of the cinema"
映画の中の唯一無二のデモン


ヘルツォークがよく映画の中で使うテーマは、自然VS人間とか、人間がいかにして大いなる自然を屈服させようとして無残にも終わってしまうのか、といったことだと思う。アギーレも、エルドラドを求めて、自然を支配してそこに文明をもたらす偉大な人間になろうとして、アマゾンの川を下るのだが、そこで待ち構えているのは、劣悪な環境。飢餓、伝染病、そして仲間割れ。印象的なエンディングは、いかだの上で最後に一人生き残ったアギーレをヘリコプターかボートで360度パンして撮るシーン。気がついたときにはすでに時遅し、夢に破れ、仲間はみな死に、周りにいるサルにすら嫌われる。絶望、といった表情で孤独に幕は閉じる。



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