マリーアントワネット (2006)


監督 ソフィアコッポラ
主演 キルスティンダンスト



マリーアントワネットの生涯についての小説や映画は今まで無数に生み出されてきた。日本でも「ベルサイユのバラ」を始め、小説家遠藤周作も彼女についての小説を出している。 「パンがなければケーキを食べればいい」発言で、幼い私に強烈な印象を残したマリーアントワネット。 しかし、その発言は彼女のものではないという説が今は有力だ。しかし王政反対派たちはあらゆるデマをタブロイドとしてフランス市民に流し、王政、特にアントワネットに対する憎悪を市民に植え付けた。 例えば、首飾り事件。フェルゼンとのロマンス。これらは、アントワネットにとってほんの小さなことだったのかもしれない。しかし、彼女が絞首刑になるその発端的出来事になった。

今となっては彼女が本当はどんな人であったのかは正確にはわからない。 タブロイドもほとんどがデマだという。 それを知ってか、監督ソフィアコッポラは彼女の詳細な自伝映画を作ろうとはしなかった。 アントワネットとその宮廷生活にまつわる、いくつかのエピソードをドラマティックに描いた。 そのため、前作「ロストイントランスレーション」でソフィアコッポラの世界にハマッた観客はこの「マリーアントワネット」の「軽さ」にがっかりしたことだろう。 しかし、コッポラの言い分を聞くと、納得もいく。彼女はこのマリーアントワネットを作ることは一種のチャレンジであったという。 「18世紀という時代モノをどうやって、今までの宮廷物語のようなジャンルの枠組みから離れ、自分のスタイルで作り変えることができるか?」というチャレンジ。

ソフィアコッポラらしさとして、特出している部分といえば、18世紀らしさを現代文化と融合させている点であるだろう。 ソフィアコッポラはインタビューで「アメリカ訛りの英語や、音楽にパンクロックを使っていることで現実とかけ離れているのではないか?」 という質問に対し、「すべては18世紀のデザインやファッションに基づいているが、アーティスティックな面でいくつか変えてた部分もある。」という。 これは例として映画に出てくる「靴」をあげている。宮廷の女性がはく靴のヒール部分は当時、ワイドであったが、これを少し幅細にすることで、現代の女性たちにより好まれる靴の形にしたのだそうだ。
そして映画を通して、サウンドトラックにはロックテイストが満載である。これを受け入れるか、受け入れられないかで評価は分かれるかもしれない。 彼女としては、リアルロケーションで撮影し、当時アントワネットがどんなことを思ったのかをうまく表現するためには、やはり当時の音楽よりも現代の音楽に頼るほうがよいと考えたそうだ。以上の点からも、コッポラが重点を置いているのは、いかに現代の観客を映画に引き込むか、という点だろうか。

エピソードとしてフォーカスされるのは、アントワネットと夫であるルイ16世の性生活について。長い間二人は子供に恵まれなかったが、これは、ルイ16世が性的不能であったことが原因とされている。

それから、ルイ15世の公妾であるデュ・バリー婦人とアントワネットの対立。当時宮廷では身分の低いものは高いものから話しかけられるまでは自分から声をかけることは許されなかったという。 娼婦という存在を憎んでいたアントワネットはデュ・バリーを無視し続ける。しかし、デュ・バリーが国王に働きかけ、アントワネットの行為は国王に対する反逆罪になる、とまで事態が深刻化したときに初めてアントワネットが折れる形に落ち着いた。 しかし、これは事実上アントワネットの敗北である。このとき初めてアントワネットがデュ・バリーにかけた有名な言葉が、「今日のベルサイユは、大変な人ですこと。」であったのだ。

また政治に全く興味を示さず、税金を湯水のようにドレスや賭博に使うアントワネット。しかし、観客も王室が傾いているという危機感は全く感じない。 おそらくそれは、ソフィアコッポラはこの映画で、ある一つの視点を一定して保っているからだと思われる。ある視点とはマリーアントワネットの視点。観るものは、アントワネットの無邪気さやもろさを通じて彼女に肯定的になる。 市民の視点など余計なものは一切排除し、アントワネットはこう生きたのかもしれない、という可能性を示唆してくれる。

それから、スウェーデン人のフェルセン伯爵とのロマンス。遠藤周作の小説の中では、彼らの関係は「愛」として描かれているがそれはプラトニックであり、肉体的に主従関係を超えるものとしては一度も描かれなかった。 しかし、こちらの映画では、フェルセンとアントワネットはある日仮面舞踏会で出会ったころから、恋の駆け引きを楽しむかのように描かれる。 夫との性生活が闇であるのに対し、フェルセンとアントワネットの性はまばゆい光の中で行われる。 しかし、フェルセンがただのプレイボーイとしてしか描かれていない点に不満を覚える。

それから文化的側面もソフィアコッポラはきちんと織り込んでいる。例えばフランスで入浴の習慣が始まったのはアントワネットの影響である点。 彼女が、オーストリアから持ち込んだと言われているこの習慣は、映画の中でもちゃんと再現されている。

映画のエンディングもアントワネットの斬首という終わりを知っている私たちの期待を裏切る。なぜなら、国王一家がヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されるところで終わるからだ。 その後、国王一家はフェルセンの力を借り、フランスを脱走しようと試みるが、途中ヴァレンヌで身元が発覚し、ギロチンで殺されるまでタンプル塔に幽閉される。 そんな転落人生は全くカットされ、結局映画はアントワネットの豪華絢爛な生活だけなのである。

コッポラは実際にヴェルサイユ宮殿内で撮影したことについて振り返っている。 関係者に宮殿を使いたいと打診したときに、彼女がアントワネットの視点から物語を展開したい、と告げると、関係者はその意見にとても肯定的であったという。
さらに実際に宮殿内での撮影はカメラやライトを置ける位置に制限があったが、それが逆にヴェルサイユ宮殿をナチュラルに、真に迫るよう撮ることができた、という。 そう確信するのはコッポラが以前1938年バージョンの「マリーアントワネット」を観たときに、何か人工的なものを感じたからだそうだ。

参考文献

http://movies.about.com/od/marieantoinette/a/mariesc101006.htm
http://www.clubplanet.com/news/archive/marie_antoinette_interview.asp




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