悪い男 (2001)

監督 キム・ギドク
主演 チョ・ジェヒョン



次々と問題作を打ち出すキムギドク監督の作品の中でも、この「悪い男」はその女性蔑視的な描写に批判の声が集中する。しかし、この映画を見る観客の多くがが女性であることや、アメリカでの彼の評価が高いこと、アメリカ版リメイクを監督自身が撮ることを持ちかけられていることからも、この映画の完成度は高い。

韓国映画界の異端児と呼ばれるキムギドク監督の経歴は映画学校で訓練されてきた他の韓国人監督とは似ても似つかない。 兵役終了後、単身フランスに渡り、2年間路上で絵を描いていた。 ミュンヘンでも絵を路上で描いており、そのときに知ったのがこの映画でも出てくる画家エゴンシーレだと言う。 長い下積み生活の末、彼は映画監督という道を選ぶわけであるが、彼の作品に共通して出てくるのはアウトサイダーたち。この映画の主人公ハンギもまたアウトサイダーであるが、ハンギ役のチョジェヒョンはキムギドクの分身的存在とも言われている。

監督キムギドクはインタビューで、この「悪い男」を作るうえである「問い」を投げかけたという。
「どうして人間はすべて平等に生まれたのに、成長するにつれて容姿の良し悪しや金持ちか貧乏かという物差しが重要になってくるのか?どうして階級や地位によって隔てができるのか?その隔てを取り払うことはできないのか?」 といった問い。この物語の二人の男女、ヤクザのハンギと女子大生ソナの住む世界は見えない壁で隔たれている。キムギドクがこの二人を通じて具現化するのは彼の問い、そしてある意味その問いとは、日本の「格差」にも共通する。ハンギはしゃべることをやめ、代わりに暴力を自分の表現方法として身に付けた、悲惨な過去を想像させる男。 一方ソナは、これから社会に出て行く、前途洋洋な女子大生。彼氏もおり、毎日を楽しく過ごすごく一般的な女性だ。この二人が壮絶な出来事を経て、何もかも捨てたときにお互いをよりどころとして生きるそのエンディングに理不尽さを感じる観客は多い。

ハンギもソナも社会が作り出した因習や、何が優れていて何が劣っているかという「常識」に囚われた被害者であると、キムギドクは示唆しているように思える。

ハンギの一挙一動には彼の「富裕コンプレックス」がにじみ出ている。ハンギのソナに対する行為の数々。一般の私たちから見れば、ミソジニスティックである。しかし、ハンギは純粋だ。純粋にソナを愛している。ただ純粋であることと、彼の「格差コンプレックス」がその愛情表現を歪ませる。

彼の愛情は純粋であると同時に社会の常識に囚われている。ソナが女子大生でなかったら、清楚で可憐でなかったら、ハンギは彼女に恋をしたであろうか?ソナが娼婦として生きることをもっと早く受け入れていたらハンギは彼女を愛しただろうか? ハンギの手下ミョンスがソナに魅力を感じ、性欲を感じ、逃げ出す手助けもするのは、ソナが「花の女子大生」という肩書きを持っているからであり、これはハンギも同じだ。ハンギは初めてソナを街中で見つけたとき、その「お上品で賢そうな」外見に惹かれる。ワンピース姿に、髪をリボンで結び、ベンチに座るその膝の上にはハンギが一生読むことのないような「高尚な」分厚い本が2冊。
その後もソナとその彼氏を尾行するソンギは、ソナの彼氏がソナをラブホテル半ば強引に連れ込もうとして叩かれるのを目撃する。ソナは性に対しても貞操を保とうとし、娼婦たちのポン引きをしているハンギとは不釣合いである。

では、どうしてハンギはソナを罠にはめて娼婦におとしめてしまったのか?

そこにハンギのコンプレックスや心に抱えた問題があると思われる。一部のメディアでは、ハンギを性倒錯的に解釈しているが、そうではない。 もちろん、ソナの部屋の壁をマジックミラーにし、ソナの生活や性行為を覗き見するハンギは異常だ。 しかし、そこでハンギは快感を得ているわけではない。いつも見守るように見つめ、ソナが悲しんでいるときはハンギも悲痛な表情を顔に浮かべる。 ソナが危険な目に遭いそうなときはすぐにでも飛び込んでいく。ハンギはソナの部屋に何度か行くが、彼女を抱くことはできない。それほど彼は純粋なのだ。
ハンギは性的に倒錯しているのではなく、自分の持つコンプレックスからソナを娼婦におとしめたのだ。身も心も傷ついた自分と「釣り合う」女性にするために。




参考文献
キムギドク監督インタビュー
http://www.sensesofcinema.com/contents/01/19/kim_ki-duk.html



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