昼顔



監督 ルイス・ブニュエル
出演 カトリーヌ・ドヌーヴ


ルイス・ブニュエルは映画界を代表する監督の一人として挙げられる。 彼の創作は、サルバドールダリと共著した『アンダルシアの犬』に始まる 1920年代のシュールレアリズムから、1950年代の商業的コメディ、 1960年代、70年代のポストモダニズムへと変化を遂げた。カナダで生まれ、 スペインで学び、そしてメキシコでこの世を去るまで、 ブニュエルは各国を転々としたが、その経験は偽善的な宗教観や、 ブルジョワ階級を内側の人間として、そして外側の人間としても描くことを可能にした。 この『昼顔』でも、ヒロインを通してフランスブルジョワ階級を皮肉った。

あらすじ

セブリーヌは、医者の夫、ピエールと何不自由のない豊かな生活を送っていた。 しかし、彼女は幼いころに家にやってきた配管工に抱きすくめられた妖艶な思い出が忘れられず、 夫との性生活は持てないが夫や他の男に鞭打たれたり 虐げられるマゾヒスティックな妄想を持っていた。 ある日、夫の友人ユッソンからパリの郊外に今もなお娼館があり、 ブルジョワ階級の妻たちがさまざまな理由で売春をしていることを知る。 セブリーヌはいてもたってもいられなくなり、 その娼館を訪ね、オーナーのアナイスに働きたいと告げる。 アナイスは、セブリーヌに「昼顔」という名前をつける。 初めは躊躇していたセブリーヌだったが、彼女の美しさや育ちの良さは、 たちまち彼女を稼ぎ頭にする。 しかし、ユッソンが娼館にやってきたことでセブリーヌは 自分が娼婦をしていることが見つかってしまった。 さらにヤクザのマルセルがセブリーヌに惚れ込んだ。 マルセルはセブリーヌの自宅まで突き止め、 彼女が結婚していることを発見した。 マルセルは夫ピエールを待ち伏せし、 銃で襲ったがピエールは植物状態で命を取りとめた。 一方マルセルは逃亡中に警官に打ち殺された。 その後セブリーヌは、娼婦もやめてピエールの看病をしていた。 そこにユッソンがやってきてピエールにセブリーヌの秘密を打ち明けた。 その次の瞬間、ピエールは植物状態から劇的な回復を遂げ、ピエールとセブリーヌは祝杯をあげる。

女性の性

ヒロインであるセブリーヌは、 誰もが目を見張る美しさを持っていた。 夫は医者であり、何不自由のない生活を送っている。 そのようなヒロインが娼婦になるとは誰も思わない。 ここでブニュエルは、これまでの女性像から180度違った新しい、 そして真に迫る女性像を作り上げた。 「妻は夫に貞淑である」という固定観念は、 『昼顔』では見られない。代わりに、ヒロインは女性の性を解放した。 自らが正しいと思う性のあり方を求める。

『昼顔』のヒロイン、セブリーヌは性に積極的なため、 多くの映画のようにエロティックなカテゴリーに分類されがちだが、 実はセブリーヌは非常にフェミニストな一面がある。 セブリーヌは夫を受け入れる受動的な性は拒絶し、 自ら娼館に足を運んで名前も知らない男との性を積極的に求めるのだ。 おまけに抑圧された性は鞭打たれ、 犯される妄想にまで発展する。 現在では、あまり衝撃的ではないが、 当時の世情を考えると彼女の行動や妄想はラディカル過ぎる。 自分の行動にセブリーヌは思い悩むが、 それは彼女がおかしいからではなく、 結局は社会が彼女の思想についてこれないだけなのだ。



フェティシズム

『昼顔』には、他にも男性のフェティシズムをあらわにする。 娼館にやってくる男はいわゆる変態的趣味を持つ者も多い。 たとえばいつもはサディスティックに命令するのに 召使いに扮して奥方役の娼婦に鞭打たれ踏みつぶされることで 快感を覚える男は、神経質なマゾヒストで、 自分のシナリオ通りに娼婦が演じてくれないとすぐに怒り出す。 また、昼顔はある館に連れて行かれ、 亡くなった娘の役を演じさせられる。 まるで何かの儀式のようだが、 昼顔は棺に横たわり、 亡くなった娘を性的に愛していた館の主は昼顔演じる 亡くなった娘を見つめて悲しみと快感に気を失う。

中でも興味深いのが、客の一人の日本人ビジネスマンだ。 その日本人は、わけのわからない言葉を話し、 娼婦たちに小さな箱の中身を見せる。 箱に何が入っているのか、観客はわからないが、 虫の羽音が聞こえるのでどうやら虫のようだ。 娼婦たちは箱の中身を見た途端、 嫌悪の表情を浮かべこの日本人を相手にすることを拒否する。 ただ一人、昼顔だけがこの男の相手を買って出た。 そして昼顔は、箱の中身を見ても嫌な顔を見せるどころか、 興味をひかれる。情事の後、昼顔はぐったりと横たわり、恍惚の表情を浮かべる。



エンディング

エンディングは、何故か植物状態の夫ピエールが突然回復して立ち上がるが、 これには様々な解釈がなされるだろう。 ブニュエルもそのような意図をエンディングに盛り込んだはずだ。 しかし、ピエールの怪我とセブリーヌが娼婦であることがピエールに知らされる、 という出来事は、物語に収束を与えるカタルシスとなる。

馬車が出てくるなどして最初はどこか現実離れして 昔のイメージがあったセブリーヌの妄想は、 友人のユッソンが出てきてシチュエーションもより現実に近いものになり、 現実と妄想の区別が観客もつけにくくなってくる。 しかし、最後に馬車が林道を走り去るシーンが挿入されるが その馬車にはピエールもセブリーヌも乗っていない。 少なくともここで確実なのは、セブリーヌのマゾヒスティックな妄想は、 ピエールが撃たれたこととユッソンが ピエールにセブリーヌの本性を暴いたことでセブリーヌにショックが与えられ解消された、 ということだ。林道を走り去る馬車を見送るセブリーヌの表情は、どこかすがすがしい。

参考文献

http://www.filmreference.com/Films-Aw-Be/Belle-de-Jour.html