ベルリン 天使の詩 (1987)



監督 ヴィム・ヴェンダース
主演 ブルーノ・ガンツ


「子供は子供だったころ いつも不思議だった なぜ僕は僕で君でない?  なぜ僕はここにいてそこにいない? 時の始まりはいつ? 宇宙の果てはどこ? この世で生きるのは ただの夢?  見るもの 聞くもの かぐものは この世の前の世の幻? 悪があるってほんと?  悪い人がいるってほんと? いったいどんなだった、僕が僕になる前は? 僕が僕でなくなった後 僕はいったい何になる? 」

戦禍を被ったベルリンの町をカメラは俯瞰する。その視界は天使たちのもの。 天使は、ベルリンの町で生きる人々のさまざまな思いに耳を傾けてまわる。 ふと、子供はビルを見上げてっぺんにいる天使を見つめる。 子供には天使の姿が見えるが、大人には見えない。 主人公ダミエルは友人の天使カシエルといつものごとく 今日出会った人々のつぶやきを共有するのであるが、天使であることに無力を感じている。 ダミエルは、天使として永遠の時の中で存在するよりも、人間としての生を感じ、 自分の存在を示したい、という。 サーカスのテントに入ったダミエルはそこで空中ブランコに乗る 天使のような女性マリオンに恋をする。そこで彼女を見る視界は一気に色を帯びる。 さらには図書館で出会った知的な老人に興味を惹かれ、 またアメリカから撮影のために来た俳優ピーターフォークのもとを訪れる。 ダミアンは将来に悩みを抱えるマリオンのそばを離れないが、 次第にマリオンは何かがそばにいることに気づき、 夢の中にまでまだ見たことのないダミアンの姿が浮かんでくるのだった。 ピーターフォークの元へ行くと、フォークは以前に天使であり、 ダミアンの姿は見えないが、前から存在を感じてた、とダミアンに告げる。 そして人間としての世界がどれほど素晴らしいかをダミアンに教えるのだった。 冷たいものに触れる瞬間や、タバコとコーヒー、絵を描く素晴らしさ、 手がかじかんだときにこすり合わせること…それを聞いたとき、ダミアンは人間になる決意を固める。 次の瞬間、カシエルの腕の中で息絶えるダミアン、そして映像はカラーになり、 人間としての生を受ける。



ヴィムヴェンダース監督の代表作のひとつとして挙げられるこの『ベルリン 天使の詩』は 1987年のカンヌでは監督賞を受賞し、 1998年にはニコラスケイジとメグライアンを起用し 『シティオブエンジェル』としてある程度の筋書きを残してリメイクされた。

1980年代、まだ冷戦が終わらないベルリンを舞台にしており、 ダミエルとカシエルの二人の天使は幾度かベルリンの壁を通り抜ける。 彼ら天使は人には見えないが、人間が人間である前から存在し人類の進化を見守ってきた。 過去と現在、そして未来をつなぐ存在として、私達に特に第二次世界対戦期のドイツを意識させる。 例えばピーターフォークは映画の撮影としてやってくるが、 その映画の内容はナチスドイツのものである。 あのホメロスという老人の思い出として、 ユダヤ人の死骸が道端に並べられている映像を私達にも共有させる。 壁が構築される前はにぎやかであったポツダム広場を探して歩き回るホメロス。 今は荒地と果てたポツダム広場で、彼は戦いのないところに物語は生まれないのかと、 日常における物語の必要性を説く。

このベルリン天使の詩はレイナーマリアリルケの詩に影響を受けたと言われる。 また、ヴェンダースはピーターハントケを起用しているが 詩的なダイアログや物語中何度も繰り返される「こどもはこどもだったころ…」で始まる 歌の歌詞はハントケによるものだという。

もともと、この『ベルリン 天使の詩』はよりコミカルな部分もあったのだそうだ。 たとえば、カシエルが人間の行動を真似てみたりするシーン。 二重露出の技法を使って天使が物を通り抜けるシーン。 それから、女の天使もいたそうだ。彼女は図書館内部のシーンで出てくるはずであった。 しかし、これらのすべてのシーンはカットされている。 そしてエンディングもファイナルカットとはかなり異なる。 もともとは、カシエルも人間になり、バーにいるダミエルとマリオンを見つけて終わるはずだった。

ピーターフォークが出演しているが、 刑事コロンボの人気とあいまって映画に奥行きを与える。 彼のオフスクリーンの姿が見られ、 たとえば鏡の前でスタイリストとぶつぶつ文句を言いながら幾つもの帽子を試してはいるものの、 なかなかぴったりくるものが見つけられないシーンや、 フォークが待ち時間に人の似顔絵をさらさらっと書き上げてしまう腕前には フィクションとドキュメンタリーの境を越えた不思議な現実味を帯びてくる。 フォークももともとは絵を描く設定ではなかったそうだ。 ヴェンダースは、フォークがかなり上手い人物画を描くことを知り、 彼の才能を映画内に使うことにした。

今となってはピーターフォークの存在は、この映画の中では欠かせないものとなっているが、 フォークはもともとキャストの候補には入っていなかった。 フォークが演じることとなった元天使役には、 ウィリー・ブラントという役者を起用する予定であったが、 断念することになり、また別の役者を用意したものの、 彼もさまざまな理由で降板している。 そこでヴェンダースはクルーと毎晩話し合い、 本当にこの元天使が映画に必要かどうかを議論した。 特に、キャスティング担当のクレア・デニスは元天使の存在は重要だと主張し、 ピーター・フォークはどうか、と提案してきた。 ヴェンダースはデニスに言われるまで気がつかなかったが、 フォークこそこの元天使役にぴったりだと思い、その日の夜にフォークに出演の依頼をしている。 フォーク自身も快く承諾し、脚本を要求した。 だが、このときまだ脚本すらできていなかったため、 ヴェンダースは慌てて走り書きのようなものを用意してフォークに送ったという。

フォークがベルリンを発つ前に、彼のナレーションの部分を録音しておいた。 しかし、ヴェンダースは編集の段階になって、 いざ彼のナレーションを映像に合わせてみると全く内容とマッチしないことに気づいた。 そこで、ヴェンダースはダイアログを書き直し、フォークに送り、 長距離電話を使って録音をした。 しかしフォークはヴェンダースの書いたダイアログをそのまま読み上げることはしなかった。 フォークのナレーション70〜80%は、彼自身の即興であるという。

ダミエル役のブルーノガンツとカシエル役のオットーザンダーは何十年にも及ぶ旧友であったという。 そのために永遠の時の中に存在する天使として二人がそろってキャストされた。 オットーザンダーは役に対してかなり注意深い。 撮影の際に雨が降ってきたことがあった。 ザンダーは、天使は濡れてはいけないと言い、 ヘアジェルをさらに使って髪を動かないように固定したという。 これは誰も思いつかなかったことだが、風を感じたり、雨に濡れたり、 と普通の人間が感じる感触を天使はもたないため、非人間的に見せるのはかなり重要なことであった。 また、マリオン役のソルヴェーグ・ドマルタンは、 たったの8週間であのアクロバティックな空中ブランコシーンをやってのけた。 当然、スタント抜きである。

撮影はヴィヴィアン・リーの『アンナ・カレニナ』や『ローマの休日』を始めとする 大作を手がけてきたベテラン、アンリ・アルカン。 アルカンは77歳のときにこの『ベルリン 天使の詩』の撮影を担当して、 天使のモノクロームの視界と人間のカラー視界を上手く表現している。 今でも現像後の仕上がりをソフトにするためにカメラの前に一枚透ける布をはさむことがあるが、 アルカンはなんと、祖母のシルクストッキングを使ってモノクロームの撮影を行ったそうだ。

この『ベルリン 天使の詩』は、 何のことはない日常生活の一部一部が実は生きる喜びであることを再確認させてくれる。 ダミエルは人間になったら、 トルコ人の理髪店で髪を切るついでにマッサージをしてもらおうだとか、 風呂に入ろうだとか、新聞を買って一面から星占いまで読みたいだとかカシエルに笑いながら言う。 そして人間になったら、いろんなことを試し始める。 甲冑を売って服を手に入れるがその服のセンスがいまいちであったり、 今までビシッとした紳士風に見えたのに、髪が伸びてオッサンぽくなってしまったり、 熱々のコーヒーをがぶ飲みしてしまうところとか。 しかし、その人間臭さによってダミエルはよりチャーミングなキャラクターとなる。

映画の最後に「すべてのかつての天使、特に安二郎とフランソワに捧ぐ」とあるが、 これは小津安二郎とフランソワトリュフォーのことだと思われる。 小津監督とトリュフォー監督は両者とも元天使となっている。 ヴェンダースは小津監督と東京をめぐる『東京画』というドキュメンタリーを撮ったことからも 明らかのように、小津監督に多大な影響を受けているようだ。 また、映画人を元天使と考えている部分も興味深い。 映画中でピーターフォークも元天使であったように、 物語を客観的に捉え、映像化していく映画人は幸も不幸もある人生をありのままに描くが、 すなわちそれは人間の生への関心であり、 終わりのある人生でも地に根を下ろして生きたいと切に願うダミエルのような天使と 似通っている部分があるのであろう。

ほかにも、実際に日本人が登場するシーンもある。 マリオンがNick Cave and the Bad Seedsのライブに酔い痴れていると、 そこにはアジア人らしき二人の女性が同じく体を揺らしている。 バンドのライブに日本人女性の観客が出てきており、ダミアンが彼女の心に耳を傾けると、 日本語でつぶやいている。


多くのヴェンダース映画は「誰かの視点」を用いている。 観客は客観的に映画を見ているが、突然誰かの頭の中に入り込んで その人の視点から物を見ることがある。 たとえば、『ベルリン 天使の詩』では、 老詩人ホメロスがユダヤ人の虐殺の過去を回想するシーンがある。 また、ダミアンがマリオンを見つめていると、 急に視界がモノクロから鮮やかなカラーに変わるとき。 これらは、キャラクターの視界であり、観客は突然に人の心に入り込むことで驚きと共感を感じる。

しかし、ひとつだけ『ベルリン 天使の詩』の中で誰の視点なのか、判然としないシーンがある。 それは、バイクで事故を起こし、端の上で生死を彷徨っている男性を見つめる『視点』だ。 カメラはその男性とダミエルの二人を写す。 しかし、画面が右から左、左から右にゆっくりとパンを続ける。 『ベルリン』の中でも最も不思議なシーンと思われる。 このパンの意味について、ヴェンダースはいくらか試行錯誤したうえ、 ダミエルの苦悩と関係があるとした。 すべてのショットには作り手の意図がこめられるとはよく言うが、 ヴェンダースもこの左右のパンについて、死に行く男性の苦悩を分ち合い、 死を看取ろうとするダミエルの内面のやさしさがショットに表れたものだとした。



『ベルリン 天使の詩』では、Double Xという白黒ネガフィルムを使用したそうだ。 しかし、前述のように、この映画にはカラーからモノクロへと色調が変化するシーンがあるために、 かなり試行錯誤を繰り返した。 撮影のアンリ・アルカンは、鏡一つとカメラ2台を用意し、 一つはモノクロ、もう一つはカラーで同じ映像を対称的に撮影する方法を思いついた。 そうすることで、カラーからモノクロへすぐにつなぎ合わせることができるからだ。 しかし、これには多くのスペースを要した。 たとえば、ダミエルがマリオンのトレーラーハウスを訪れるシーンは カメラ2台を置くスペースがなかったため、この方法は断念しなければならなかった。

そこで、カラーが入り込むシーンはカラーフィルムで撮影し、 残りはモノクロフィルムで撮影した。 そして、フィルムを現像する際、モノクロネガはカラーネガに転写する必要があった。 というのは、モノクロとカラーネガをつなぎ合わせることはありえない、 なぜならプリントに繋ぎ目を作ることになるからだ、というヴェンダースの言い分があるからだ。 しかし、こうまでしても、さらに問題があった。 というのは、モノクロネガから良い色の仕上がりを期待することが難しいのだ。


ところで、この映画はなぜ、『つづく』で終わるのか?

ヴェンダースは、『つづく』にした理由はもう一人の天使カシエルにあるとする。 というのも、カシエルも人間になって二人の元を訪れるはずであったからだ。 オリジナルでは、カシエルこそ人間のあらゆる行為を実践して喜び、酒を飲んで酔っ払い、 女を買うことを経験し、ギャンブルに耽る。挙句の果てにはぶっ飛んだギャングスターになる。 あるシーンでは、カシエルが台本2枚ほどという長いセリフを叫びながら町を練り歩く。 しかし、このシーンは残念なことにカットになり、 カシエル役のオットーザンダーはひどく立腹したそうだ。 そのこともあって、『つづく』を最後に入れたのだという。



参考インタビュー
http://pov.imv.au.dk/Issue_08/section_1/artc1A.html




ご意見、感想、依頼はこちら