珈琲時光



監督 ホウ・シャオシェン
主演 一青窈

2003年、小津安二郎生誕100周年を記念して、 二人の国際的な映画監督が小津にオマージュをささげる作品を作った。 一人はイラン人監督のアッバスキアロスタミ。 キアロスタミは若いころから小津作品の影響を受けていたと言う。 このときの作品が『5 Five, Dedicated to Ozu(小津に捧げる)』で、 映画を物語として展開することに長けるキアロスタミらしからぬ実験映画であり、 映画というよりはまるで美術館に出展された映像を見ているかのようだと人々は言う。 また、もう一人が台湾出身の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)。 80年代台湾ニューシネマを築き上げた台湾を代表する監督である。 彼がオマージュとして作ったのがこの『珈琲時光』である。

一青窈演じる陽子が洗濯物を干しているところから映画は始まる。 そこにハジメ(浅野忠信)から電話がかかってくる。 その内容によると、陽子は台湾から昨日の夜帰ってきたという。 そしてこれから高崎にお墓参りに帰るためにハジメについでに会いに行くと。 陽子は変な夢を見たことをハジメに話し始める。 なんでも赤ん坊を取り替えられた母親が悲しんでいるのだが、 その赤ん坊がしわしわの老人のようでとてもみにくい顔をしていて恐ろしかったという。 陽子はその夢が何かの物語であるような気がしてハジメに尋ねるのだった。

都電荒川線と山手線を乗り継ぎ、御茶ノ水でおりる陽子。 向かう先はハジメの営む古本屋だ。 陽子は台湾のお土産兼誕生日プレゼントとして、 台湾の鉄道局開局116周年記念のために作られた懐中時計をハジメにプレゼントする。 そしてハジメは陽子の見た夢がゴブリンにかかわるものではないかと伝える。 その後、日暮里駅から実家の高崎に向かう陽子。そこで台湾人の恋人の子供を妊娠していて、 結婚するつもりはなく、シングルマザーになることを母親に告げる。

東京に戻ると、行きつけの喫茶店エリカからハジメの古本屋に向かう。 ハジメは陽子の夢に近い絵本“Outside, Over There”を陽子に渡す。 陽子はその本に見覚えがあるようで、帰りの電車の中でも家でも食い入るように その絵本を眺めるのだった。突然陽子は思い出し、ハジメに電話をかける。 それは4歳のころに読んだ絵本だった。 ある宗教に没頭して出て行った生みの親がいたころの忘れ去られた思い出だった。

妊娠してから、体調が悪くなることが多く両親やハジメという存在に 支えられている温かみを感じていく陽子。 しかし、一人で子供を生む決意に変わりはないのであった。 ただ、ハジメだけはいつも陽子の側にいる。


普通の人々の日常が淡々と語られていくのではあるが、 実は鉄道での撮影や古くからある喫茶店など、 ロケーションハンティングの緻密さと、 「電車」、「赤ん坊」を象徴としてめぐる物語の奥深さが光る。 陽子が見る夢の中に出てくる気味の悪い赤ん坊、 ハジメの作ったグラフィックアートに描かれた電車を胎内とみなしてその中でうずくまる胎児の絵、 そして陽子の体に宿った新しい命。 小さなことは、物語の静かな流れの中で見逃してしまいがちだが、 全ては陽子の妊娠という映画のメインとなるテーマにリンクする。 また、電車内での移動シーンや鉄道の走るシーン、駅構内、 と電車が映画全体に欠くことのできない存在としてある。 ハジメが電車好きであることや、 ハジメが描くグラフィックアートが電車に囲まれる胎児である自分(ハジメ)であることから、 あるときは都市に密着した存在として、都市と田舎をつなぐ交通手段として、 またある時は陽子とハジメが出会うように、 人と人をつなぐロマンティックな存在としてホウ監督は描いている。

陽子はライターとして、台湾人作曲家、江文也について調べている。 江文也が好んで通っていたDatという喫茶店を探したり、 江文也の親族に話を聞きに行ったりと、 実際のロケーションでの撮影や江文也にかかわりのあった人々の出演は あたかもドキュメンタリーを見ているようで、 監督ホウ・シャオシェンは物語中でも現実世界でも台湾人作曲家、 江文也の存在を前面に押し出していることがわかる。

一青窈の映画初主演となるこの映画は監督ホウ・シャオシェンが日本に来たときに この『珈琲時光』のヒロインに抜擢したという。 小津へのオマージュと言われているだけあって、 撮影方法の中には小津らしさも見受けられる。 小津は登場人物の言葉のやりとりの際、 顔のクローズアップを交互に使うことがあったが、 この『珈琲時光』では、クローズアップがないため、 登場人物がカメラ方向に目線を合わせることが少なく、 観客は感情移入する、というより、 陽子と彼女を取り巻く人間関係を見守るような見方になる。 しかし、最後に電車の中で眠る陽子を見つけたハジメが 彼女のことを微笑みながら見つめるシーンだけは違う。 カメラは眠る陽子と陽子を想いやるハジメを交互に、 そして今までよりもより近くでとらえ、 二人の今後の関係に含みを持たせて映画は終わる。

小津は登場人物の会話を不自然にも強調しているが、 是枝監督がそうであるように、 この『珈琲時光』ではまるで演技をしていないかのように、 役者の自然体を見事に表現している。 おそらく台詞はある程度決まっているものの、 それを覚えてしゃべるのではなく、役者自身が台詞の内容を頭で理解し、 ある程度自分の言葉で表現するスタイルなのではないだろうか。 役者歴のない一青窈も、 現実世界の中で人との対話において生まれる間やぎこちなさがうまく表現しており、 やらせ感がない。

また、小津が松竹で作品を撮っていたころを思わせる松竹のロゴをリバイバルしたものを、 この『珈琲時光』で一番最初に見られる。



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