ロンドンに住む15歳のアレックス(マルコム・マクドウェル)は暴力とセックス、
ベートーベンを愛する少年。仲間のディムとジョージーとつるんで暴力行為にふける。
浮浪者一人をよってたかってリンチし、
別の少年ギャングが女性をレイプしようとしているところに殴り込みをかけ、乱闘になる。
さらにはある豪邸に被害者を装って押し入る。
豪邸の主人、アレクサンダー(パトリック・マギー)を縛り上げ、
瀕死の状態まで暴行を加え、さらには夫人を目の前でレイプする。
家に帰ればアレックスはベートーベンの第九を聴きながら快適な眠りに落ちる。
しかしある時、仲間に裏切られ警察に逮捕される。獄中生活を送っていると、
犯罪者の人格を実験によって変えるルドヴィゴ療法の実験台を探していることを知り、
自ら志願してその実験台になるアレックス。その治療法はすさまじいもので、
アレックスは暴力を働かれても、眼前に裸体の女性が現れても、
吐き気を催してしまう人間になってしまった。釈放され家に帰ると、
知らない男が息子として住んでおり、家にいられないアレックス。
外に出ると警官に成り代わったディムとジョージーに捕まり、茂みで暴行される。
瀕死のアレックスは、近くの民家に助けを求める。
そこは以前にアレックス達が暴行を働いたアレクサンダーの家であった。
アレクサンダーは車椅子生活を余儀なくされ、夫人はショックで自殺。
代わりにマッチョの男を住まわせていた。
アレックスが自分を不幸に陥れた張本人だとはまだ気付かないアレクサンダーは
瀕死のアレックスに同情し、彼を変えてしまった政府に対して抗議しようとする。
しかし、アレックスが風呂に入っているときに口ずさむあのメロディから、
全てを思い出したアレクサンダーは、復讐を試みる。
第九を聞かされ、窓から飛び降りて大怪我をするものの、
アレクサンダーの復讐から逃れた。病院である程度回復すると、
アレックスは第九、性、暴力に吐き気を催さなくなり、以前の状態に戻っているのだった。
<映画のテーマ> アレックスから読み取れることの一つとしてあるのが、 学問や文芸が必ずしも人間を正しい方向に導くわけではない、ということである。 アレックスは知性があり、ベートーヴェンを愛するが、同時に暴力やセックスも愛する。 これは学芸が必ずしも人間性を高めるわけではないことを示している。 ヒトラーをはじめナチスドイツのトップは非常に文化的に洗練されてはいたものの、 人間として非情な行いもしてきた、とキューブリックはいう。 アレックスがいかに知的で、さらに悪に染まっているかは、 映画内でキリスト教に関するシーンでも表されている。 それは刑務所の図書館でアレックスが聖書研究をしているふりをして キリストの鞭打ちを行うローマ人の番人になる妄想のシーンだ。 その数ヵ月後、映画の中で唯一の善人である、 刑務所の教戒師に向かってアレックスは従順なふりをしていい子になりすます。 善人を利用し、キリスト教の教えを理解したうえで、妄想の中では、 昔のキリストの受難を描いたアメリカ映画のように、 アメリカンアクセントでキリストを罵声する番人になっているのである。 また、個人の自由と社会秩序の対立も映画のテーマとして浮かび上がる。 アレックスは自ら暴力やレイプという「悪」を選ぶ自由がある。 しかし、一方で社会秩序を保つために国家は一定以上の「悪」を選ぶ自由を許さない。 アレックスは社会秩序を乱す存在として、刑務所に入れられ、自由を奪われる。 さらには、社会に悪影響を与えない人畜無害な存在に作り変えてしまう。 もはや、アレックスは「善」と「悪」を自分で自由に選ぶ権利もない。 果たして、国家は社会秩序を守るためにアレックスにしたように、 人間の自由意志を弾圧することは許されるのか?そういった個人の自由と社会の対立が描かれている。 キューブリックはこの『時計じかけのオレンジ』の核となるのは、自由意志の問題であるという。 善と悪の選択の自由を奪われたら、人間は人間らしくない、 それこそ「時計じかけ」の人間になってしまうのか? 元MPAAのトップ、アーロン・スターンはこの『時計じかけのオレンジ』に登場する アレックスの行動は無意識からなるものでありそれが人間の自然な姿であるが、 ルドヴィゴ療法で「治療」を施されたアレックスは「文明化」されたことになるのだが、 彼の暴力や性に対する過剰な拒否反応は社会によって人工的に課されたノイローゼであると発言した。 <マルコム・マクドウェル> アレックスは10代の少年という設定になっているが、 撮影当時すでに27歳のマルコム・マクドウェルを起用したことについて、 キューブリックはマクドウェルの容姿から実年齢が判断しづらい点や、 彼の演技に対する才能を褒め称え、たとえ17歳の俳優を探したとしても マクドウェルが演じるアレックスのような存在感は出すことができなかったであろう、と語る。 ルドヴィゴ療法のシーンでは、アレックス役のマルコム・マクドウェルが椅子に縛られ、 暴力的な映像を見せるために目を閉じないようフックで目を無理やり開いて固定される。 そのため、角膜を傷つけ失明寸前であったという。 そしてアレックスの横では目薬を絶えず目に流し込む男が映されているが、 この男は実際に医者であり、目が乾くのを防ぐために必要であった。 <撮影> キューブリックは完璧主義者であり、 この『時計じかけのオレンジ』の撮影において一つ一つのシーンを撮るのに何テイクも要した。 しかし、1970年の9月で撮影は終了し、1971年の4月には映画が完成したので、 キューブリック作品の中でもこの『オレンジ』はかなり短い期間でできあがった作品である。 また、近未来的で幻想的な雰囲気は、 作品中よく見受けられるようにフレームが湾曲して見えるフィッシュアイレンズを用い、 スローモーションやファストモーションを用いることで表現されている。 キューブリックは、バージェスの小説世界を映像化するために必要な技術であったという。 アレックスの自殺のシーンは、かなりの労力を要した。 まず40ポンドほどでカメラを購入し、発泡スチロールで回りを頑丈に固め、箱状にする。 その厚さはなんと18インチ、約46センチである。そしてレンズに沿って穴を開けた。 そしてカメラを建物から放り落とすのであるが、アレックスの視界のように、 レンズ面がちゃんと地面を向いて落下する映像を撮るために、 6回もカメラを落とす必要があったが、 6回地面に叩きつけられてもカメラはなんともなかったのだそう。 映画で使われるクラシックミュージックについて、どうしてその音楽を選んだかについて、 キューブリック自身も説明が難しいという。 撮影が終わって、編集の段階で音楽を合わせるのであるが、 直感で思い付いた音楽を合わせてみて、気に入ったら使うといった具合であった。 全ては自分の好みや、運や想像の問題である。 少女二人との乱交シーンは、ファストモーションで、 BGMにはロッシーニのウィリアムテル序曲が使われている。 通常、映画の中で濡れ場だとか、ラブシーンというものはスローモーションで撮影することにより、 そのシーンのムードを高め観客の快感をも誘う。 これに反して、キューブリックはファストモーションを使い、 さらにはBGMに格式高い音楽を使うことでかなり滑稽なシーンになっている。 また、アレックスがキャットレディに暴行を加えるシーンで使われているように、 この『時計じかけのオレンジ』では何度かハンドヘルドカメラ (カメラをドリーに乗せず、手で持つため振動が伝わり不安定な映像になる)を使う。 このときだけは撮影担当のジョン・オルコットに任せず、 キューブリック自身がカメラを持って撮影を行ったという。 その理由を、細かい動きの可能なハンドヘルドカメラだといくら有能なカメラマンでも、 キューブリックの思うアングルや距離など細かいところまでぴったりその通りに 撮影することが不可能であるからだ、という。 <ロケーション撮影> ほとんどの撮影は実際のロケーションで行われた。 例外として、いくつかセットを作った。 コロヴァ・ミルク・バー、刑務所の受付、アレクサンダーの浴室、 そして彼の家のエントランスだ。物語の設定が近未来であったため、 事前のロケーションハンティングは入念に行われた。 キューブリックは、イギリスの建築雑誌を見ながらロケーションを探したという。 ミルク・バーのアイデアはキューブリック自身のものであるが、 以前キューブリックはある展覧会で女性の裸体を家具として展示しているのを見たことがあった。 そこから、ミルク・バーのアイデアが生まれたという。 実際に、プロダクションデザイナーのジョン・バリーと共同で作り上げたが、 ジョン・バリーは像を上手く家具にするために、 ヌードモデルに思い付く限りのあらゆるポーズをとらせたという。 この『時計じかけのオレンジ』では、ダイアログはほとんど映像との同時録音に成功している。 ロケーション撮影や、騒音の多いセットでの撮影が主であったが、 幸運なことに、出来上がりは余計なノイズが少ないクリアな仕上がりになったという。 音声の同時録音のため、 ペーパークリップほどの小マイクとテープを衣装にしのばせての撮影になった。 いくつかのショットでは、実際にマイクが肉眼で確認できるのであるが、 それがマイクであるとはなかなか見分けがつかないのである。 キューブリックは撮影にあたって、何時間も、何日にもわたって入念な準備をするのだ、という。 しかし、いくらキューブリックでも、自分の思い描いているものと、 実際のシーンは必ずしも一致しない。それがロケーション撮影の極意であるようだ。 というのも、キューブリックは、実際に撮影する場所に行って、 リハーサルを何度か行ってから、「どう撮影するか」を決めるのであるが、 いくら事前にシーンについて頭の中で考えていても、実際にロケーションに出てみると、 最高のシーンを撮るためにいくつもの修正を施す必要が出てくるという。 ロケーション撮影には、ハプニングがつきものであり、恐るべき短所でもあるが、 それを含めて撮影を行うことでその瞬間にしか撮ることができないシーンが出来上がるのだ。 キューブリックは映画を作るうえで、なるべく同じ類のものを作らないよう心がけていた。 そのため、題材となる小説等をジャンルを問わずなんでも読むようにしていたそうだ。 そして本を読むときもストーリーの感動に自分を奪われないよう、客観的に読んでいた。 そしてそのストーリーが興味深く、 可能性の含んだものであると判断したら、さらにメモを取りながら注意深く読み砕くのだそうだ。 そのストーリーに持った第一印象を撮影に入ってからも、映画が出来上がって数年たっても、 いつまでも忘れずに心に抱いていることは、重要なのだそうだ。 なぜなら、作品が自分に身近なものになりすぎて、 「木を見て森を見ず」の状態になってしまうからだ。 どんな映画監督も、その映画を初めてみた観客と同じ感動を味わうことは不可能である。 映画監督の最初の感動は、自分の作った映画を見たときではなく、 その題材となる本や脚本を初めて読んだときなのだそうだ。 幸運なことに、キューブリックは過去に作った作品の元となる題材に覚えた 最初の興奮を忘れたことはない、と語る。 映画製作のプロセスにおいて、キューブリックは編集作業が一番好きだという。 脚本を書くことにもとても満足しているが、脚本は映画製作の前段階になる。 撮影はキューブリックにとって製作の中で最もハードだという。 たとえば、朝は早く、夜は遅いだとか、体調が悪くてもやらなくてはならないだとか。 それとは違い、編集は他の芸術とは違ったユニークな点がある。 脚本、演技、撮影は他の芸術と共通する部分があるが、 編集だけは映画というアートにのみ存在する作業であるため、だそうだ。 そんな『時計じかけのオレンジ』の編集は週7日休みなく働いて約6ヶ月かかったという。 編集の際は撮影のときの姿勢とは真逆になるという。 撮影の際は、時間と予算の許す限り、撮れる限りのものを撮ろうとする。 一方、編集では、「必要かどうか」だけに重点を置いて、 撮影してきたフィルムを惜しげもなくカットしていく。 |