Dead Man



監督 ジムジャームッシュ

出演 ジョニーデップ

あのアンリーやスパイクリーも卒業生というアメリカきってのフィルムスクール、 ニューヨーク大学で学んでいたというジャームッシュ。 いわゆるハリウッド映画のような派手さは決してないが、 生み出す作品ごとに多くのファンを魅了する彼の映画作りには、一貫性を感じる。 というのも、ジャームッシュ作品の多くは、アウトサイダー的人々の「日常」を淡々と映し出す。 その物語に出てくるアウトサイダー達は、何か国を変えてしまうような大事件を引き起こしたり、 解決したりするわけではない。そこにアメリカンドリームの精神はなく、 むしろアメリカ社会の闇や、見落としがちな部分に焦点を当てる。 また、多くのアメリカンドリーム的な映画の題材になりやすい、主人公の人生の局面について描いていることも少ない。 物語としてもロングテイク、ロードムービーなどの技法においても、 ジャームッシュがミニマリストの一人として捉えられるのは、 その多くの作品に共通したものが見られるためであろう。

ジャームッシュが描くのは日常の断片。「ストレンジャーザンパラダイス」、 「ダウンバイロー」、「デッドマン」、「ブロークンフラワーズ」に見られるように、 ロードムービーの手法を取ることで登場人物の微妙な心の変化を描く。

登場人物の多くが、 アメリカで日和見的な生活をしている人々。 上に這い上がろうとする向上心はなく、 ただ行動の制限された社会で小さな幸せや自分の生き方を見つけるための人生。 そして多民族国家らしく、異人種間、異国間の出会いをコミカルに、 しかし暖かいものとしてジャームッシュは描く。

「ストレンジャー(略)」、「ダウンバイロー」、「デッドマン」等、 彼の作品の主人公になるのは、多くはいわゆる何の変哲もない貧乏な白人。 そこで外部の攻撃的存在=非白人と出会い、価値観の違いから 反発しあうことによって自分の存在価値に気づいてゆく。 「ストレンジャー」では、主人公ウィリーが、ハンガリーからやってきた従妹エヴァの 自分にはない行動力を見て、自分もある行動に移る。 「ダウンバイロー」では、二人のアメリカ人が1人のイタリア人男と獄中で出会うことによって、 このイタリア人の案によって脱獄を決意する。 「デッドマン」でも、主人公ウィリアムブレイクがネイティブアメリカンのノーバディに 出会うことによって自然の中で生き、死んでいくことを学ぶ。

いわゆる、物語自体が映画を収束へと向かわせる"story driven"なのではなく、 ジャームッシュの映画はほぼ "character driven"、 つまり観客の目を引くのはストーリーよりも登場人物なのである。

しかし、この「デッドマン」はジョニーデップ演じるウィリアムブレイクが 明確な目的、「死」を意識して西部を彷徨うこと、 ブレイクの脆弱さとネイティブアメリカンのノーバディという存在の偉大さの対照を始め アメリカ東部と西部の違いなど ジャームッシュが他作品よりアメリカ社会の歴史と今を彼らしいシニシズムを 盛り込んで混ざり合わせて描いていることは確かだ。

アンチウェスタンともとれるこの「デッドマン」。 文明が被支配者で、自然が支配者として描かれているのは、 今までのハリウッドウェスタン作品と一線を画す。 だが今までのウェスタンが間違っていた、と彼は主張するのではない。 ヨーロッパの文明とアメリカの自然の対立は 当時のアメリカ文学の中でも大きなテーマになっているが、 ジャームッシュもこの「デッドマン」で、 自然を侮る思い上がった人間は必ず自然の厳しさにぶつかることを描く。 ただ彼の人物の描き方には、自ら脚本まで手がけることからも、 真実や歴史を忠実に描こうとするのではなく、 多様なアメリカを反映して、こんな人もいたのではないか、 とあくまで提案にとどまる謙虚さすら感じる。

映画冒頭から、ジャームッシュはロングテイクを活かし、 「東」から「西」へ移動することで、ダイアログをほぼ必要とせずに どんなことが主人公を待ち受けているのかをうまく記号化する。

「おっと、これはまずいことになりそうだぞ」

そう観客に思わせるのは、列車の中で始まる淡々としたオープニングシーンの中でも、 景色がだんだんと荒涼としてくることや、乗っては降りる乗客の様子や格好が 汚らしくなっていくことからわかる。一人最後まで列車に乗っている主人公は 降りるときにはその不相応な格好から、未知の世界からやってきたエイリアンのようだ。

主人公のウィリアムブレイクは会計士で、就職先のあるアメリカ西部の町まで、 東部からやってくるひ弱な男。だが、実際に職場までやってくると、 自分のポストはないと言われる。途方に暮れたブレイクは、夜バーで酒を飲もうとするも、 その西部にそぐわないスノビッシュな格好によって酒すらも拒まれる。 そこで、花売りの女セルと出会い、一夜を共にする。 しかし、セルの身勝手な恋人チャーリーと鉢合わせし、 銃撃になる。ブレイクのまぐれの一発がチャーリーに当たりチャーリーは死んでしまう。 このチャーリーは、ブレイクの働くはずであった鉄工所の社長の息子であったため、 追っ手に追われて西部をさまようことになる。 すでに深手を負っていたブレイクは、ここでネイティブアメリカンのノーバディに助けられるのである。

ノーバディはブレイクとは違い、この時代のアメリカ西部でうまく生きる術を知っている。 ノーバディは白人の教育を受け、学芸にも精通しており、 ブレイクのことを本物の詩人ウィリアムブレイクだと思い込む。 ネイティブアメリカンとヨーロッパという二重のアイデンティティを持つことは、 この作品では個性としてポジティブに描かれている。 むしろ、ブレイクの脆弱さが露呈される。ノーバディの口癖は、

Stupid white man.

ブレイクはこの西部では一人では生きられない。 しかし、ノーバディと出会うことによって、西部で生きる術を学んでいく。 だが、生きる術というよりは、彼はすでに死を意識しており、 魂の帰る場所を探す、というべきだ。

この映画では、ブレイクは絶えず西部を移動する。列車で、徒歩で、馬で、最後にはカヌーで。 その移動が終わるときが、彼の魂が肉体から離れるときなのである。

参考文献

http://www.sensesofcinema.com/contents/cteq/01/14/dead_man.html
http://www.podgallery.com/html/jarmusch.html
http://www.podgallery.com/html/jarmusch2.html




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