8 1/2 (1963)
directed by フェデリコフェリーニ
starring マルチェロマストロヤンニ

8 1/2は主人公である映画監督グイドの主観的世界とフェリーニの世界が縫い目なく織り合わされた複雑な作品だ。
グイドの主観的世界には、彼の子供のころの体験がひどく影響を与えている。ときに観る者はグイドの小さいころにトリップし、また時には彼の現在の女性蔑視的な妄想にトリップする。この映画はグイドが映画を作るそのプロセスと外的苦悩の映画だと説明することもできるが、それよりも、内的苦悩の映画だと言うほうがよさそうだ。
もちろん外的苦悩は絶えずグイドを苦しめる。グイドの女性関係を嫌う妻のルイザ、愛人のカルラ、プロデューサーや出演をしつこく要請する女優ら。彼らの存在はグイドの現実逃避を加速させる。しかし、その根本には、子供のころのあるできごとがトラウマとして存在している。
厳格なカトリックの学校にいたグイドは、浜辺に住むサラジーナという奔放な女性との接触によって、強く罰せられる。このときの罰が、グイドにゆがんだ女性観をもたせることになる。それは現在のグイドを取り巻く女性が全てを物語る。妻には清純で、汚れないルイザを選ぶが、一方ではグラマラスで官能的なカルラを愛人にする。これは、グイドが女性を母のように純か、サラジーナのように不純か、という2種類に分類しているからだ。しかし、完ぺきな女性としてさらに別の女性、クラウディアが妄想として存在する。なぜなら、グイドは妻も愛人も自分の思うとおりにすることができないから。女性の二面性を受け入れることができず、妄想に走るのだ。
オープニングシーンは、象徴的だ。グイドは車の中に閉じ込められ、中から煙が出てくるがなかなかでることができずにもがいている。あたりではグイドを取り巻く人物が彼を傍観している。となると、グイドが車からなかなか出られないのは、グイドの内的苦悩の表れであって、外からの力ではなく他人はあまり関係ないのかもしれない。そしてやっとのことで車から這い出したグイドは空に飛び立つ…これはエンディングで誰もが仲良くパレードをする結論にいたったグイドの妄想と同じことだろうか。現実では何も解決はしていないけれど。
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