ピアニスト (2001年)



監督 ミヒャエル・ハネケ
出演 イザベル・ユペール



1983年のエルフリーデ・イェリネクの小説を、 ミヒャエル・ハネケが映像化したこの『ピアニスト』は、 DVDパッケージだけだと一見甘いラブストーリーかのように思えるが、 ラブストーリーのジャンルに入れることのできないような狂気が終始ほとばしる。

監督ミヒャエル・ハネケが原作のあるストーリーを脚本化するのは今回が2回目だという。 1983年にイェリネクの小説が出版されて5年ほど経ったころ、 ハネケは彼女の小説を初めて読んだ。 非常に興味を持ち、すぐさまイェリネクに脚本化したいと申し出たそうだ。 しかし、彼女は彼女なりに脚本家をしたいと考えており、 ハネケの申し出を断ったという。 それからさらに5年後、 ハネケの友人で映画監督でもある人物がイェリネクの小説を脚本化する権利を得ることができた。 その人物はそこでハネケに脚本を依頼し、 自分は資金集めに奔走したが、結局上手くいかず、 権利はハネケの前作『ファニーゲーム』のプロデューサーでもある Veit Heiduschkaの手に渡る。 そこでハネケは監督としての依頼を受け、 イザベル・ユペールが出演することを条件に監督をすることに合意した。

イザベル・ユペールという女優に何故、 ハネケは魅力を感じるかというと、彼女は二面性を備える珍しい女優だからだ、という。 一方で、ユペールはとても脆弱な存在感をかもし出す。 しかしもう一方で、インテリでなおかつとても冷たい微笑をたたえる。 そのため、被害者にも加害者にもなりうる可能性を表現できる女優である、 とハネケは褒め称える。




「母と娘」

フロイトの精神分析論で言われている エディプス・コンプレックスは映画理論の中でもここ数十年常に議論されてきた。 通常男性は、幼い頃に母を愛するが圧倒的な権力を持つ「父親」という存在に破れ、 新たに自分が「父親」となるプロセスを必ず通るという。 ヒッチコックの『サイコ』や70年代のアメリカホラー映画、 たとえば『ハロウィン』や『13日の金曜日』は精神分析論のもとに分析された論文が非常に多い。 それもそのはず、この3つの映画の主人公に共通するものは「母」の存在なのである。 エディプス・コンプレックスを克服できなかったモンスターとしてこれらの主人公は、 女性に「母親」というセクシュアルでない、かつ自分を愛する姿勢を求めるため、 積極的に男とデートをし、 セックスを楽しむ若い女達は必ずホラー映画の中で早々と殺される運命なのだ。 その逆に、貞淑で純潔を守る女主人公は生き残る。

しかし、マザコンの娘はどうだろうか。 この『ピアニスト』のエリカの母の過保護具合は相当なもので、 エリカが遅く帰ってくれば厳しく叱責し、どこにいるのか逐一報告させ、 さらにはその場に電話をして本当にいるのかどうか確認までする。 一方エリカは母親の束縛に今まで逆らってこなかったのであろう、 いやいや従いながらも母親に監視されていることに安らぎを感じるマザコンぶりだ。 ベッドもあの年になって母と娘くっつけて一緒に寝ている。

だがエリカは女を捨てて生きてきた。つまり男であるも同然だ。 その理由として、彼女の病的な性癖がある。 エリカは、普通は男性しか通わないポルノショップへ平然と入り、 ビデオブースの中でポルノを見ながらゴミ箱を漁り、 前の男性客がぬぐったティッシュの匂いを嗅ぎながら自慰にふける。 また、ドライブインシアターに忍び込み、 車の中でセックスをする男女がオーガズムを向かえるころに、 エリカはパンティを脱いで小用を足す。 この行為は男性性器を持たないエリカの男性的オーガズムとも考えられるのではないだろうか。

父親の存在が薄いこのエリカにとって、母親との関係は、ときに母と娘であり、ときに男と女になる。彼女はわざと腿を傷つけて血を流すことで、母親に生理がきていること、つまり女であることをアピールして自分の中の均衡を保とうとする。しかし、感情が爆発すれば、母親の上に馬乗りになるなど、男性的な部分が常に見え隠れする。

これまで厳しい母親に従うことで母の愛を懸命に乞ってきたエリカの目の前に、 美しい青年が現れると事態は変化する。エリカの中に混乱が生まれる。 男として母を愛するエリカと、女として青年ワルターに惹かれるエリカ。

エリカがワルターに惹かれていることがわかるシーンがある。 エリカの教えている女生徒が肝心の試験に緊張して遅れてきたシーンだ。 ワルターは女生徒に付き添い、笑わせて緊張をほぐしてやる。 すると女生徒は平常心を取り戻し、うまく演奏を始める。 その一部始終を見ていたエリカは何を思ったか、 ガラスの破片を女生徒のコートポケットに入れる。 演奏の試験が終わり、生徒たちが帰る支度をしていると悲鳴が聞こえてくる。 女生徒は案の定手を傷つけ、しばらくピアノが弾けなくなってしまう。 これは普段は冷たく突き放すエリカがワルターを愛し、 女生徒に嫉妬していることを明示するサインである。

しかしそれと同時に、エリカは若い頃の自分をこの女生徒に重ね合わせている。 エリカは母親の夢であるコンサートピアニストに自分がなるため、 幼い頃から普通の年頃の女性が楽しむことを全て犠牲にしてきた。 夢に敗れ、ピアノ講師として今、この女生徒とその熱心な母親を前に、 自分とあまりに似た境遇に出会う。今、ワルターと女生徒が一緒にいるのを見て、 自分には許されなかった恋愛を女生徒はするかもしれないという嫉妬が見えなくもない。

ワルターはこのあとエリカの気持ちに気付き、愛を交わそうとする。 しかし、彼女の中の男性性はワルターを拒絶するため、 通常の男と女の愛し合い、つまりセックスができない。 そのため、ワルターを機械的に「いかせる」ことしかできない。 それも、最中に少しでもワルターに男性性を見せられようものなら、嘔吐するほどだ。

混乱の頂点に達し、エリカはワルターにマゾヒスティックな手紙をしたためる。 母親のいる場所で強引に犯されることで、エリカは変われると思ったのだろうか。 しかし、エリカは結局惨めに痣を顔に残すだけで、変わることはなかった。 ラストシーンでナイフを持ち出したエリカは、観客の思わぬ行動を起こす。 それはオイディプス王が自分の妻が母親であり、実の父親を殺したことを知り、 驚愕のあまり自分の目をえぐりとってしまうように、 エディプスコンプレックスを克服できなかった女はコンサートホールという場で自分を傷つける。 ピアニストとしての自分、娘としての自分、 女としての自分の存在を社会的に消し去ろうとする。 女として、人間として、幸せになれない、それはあまりにもかわいそうな女の物語である。

「登場人物」

この『ピアニスト』に出てくる主要人物の全てが「普通」ではない。 執拗なまでに娘に執着する母親。 幼い頃から、娘をコンサートピアニストにするために教育を徹底し、 娘の他の可能性を断絶してきた。 今でも、勤め先からまっすぐ家に帰らずぶらぶらしていようものなら 玄関に仁王立ちして詰問する。 挙句の果てには外出先の家に電話までかけて本当に娘がそこにいるかを確認する始末だ。 ワルターは一見秀才でピアノもできる好青年だ。 しかし、ピアノ以外に何の取り柄もない年増のエリカを好きになること自体 ワルターの異様さを物語る。 工学部の学生でありながら、 エリカに近づくために音楽部の大学院に入学するほど彼女に惚れこんでいる。 彼女の手紙どおりに彼女に乱暴もすることができる。 その後、ケロッとした様子でエリカに挨拶を交わす。 そしてエリカ。これら三人が出会うことで今まで綱渡り状態ながらも保たれていた均衡が崩れ、 物語は終焉へと導かれる。




参考文献
http://www.indiewire.com/people/int_Haneke_Michael_011204.html
http://www.kinoeye.org/04/01/interview01.php