ピクニックatハンギングロック(1975

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監督 ピーター・ウィアー

1975年に制作されたこのオーストラリア映画は、今はハリウッドに進出し、大作をいくつも手がけるピーターウィアー。彼の代表作のひとつにはジム・キャリーの「トゥルーマンショー」があるが、彼の監督人生の初期に作られたこの『ピクニックatハンギングロック』は同じ人間が制作したとは思えないほど、神秘性や美を巧く表現している。

 

ジョーン・リンジーの同名小説を脚本家のクリフグリーンが脚本化した。1900年のバレンタインデーに、オーストラリアの岩山、ハンギングロックにピクニックに向かった女学生たち。その中の3人の女学生と探しに向かった一人の教師が戻らず、多くの人による捜索も空しく姿を忽然と消した神隠しのような物語だ。

 

あらすじ

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物語は、オーストラリアにある名門寄宿制女子学校の閉じられた空間の中で生活する美しい女学生たちの生活から始まる。女学生たちは、アップルヤード学長を始めとする教師陣の厳格な指導のもと、女性としての在り方やたしなみを学んでいた。1900年のバレンタインデーに、岩山ハンギングロックへの集団外出を許可された女子学生たち。もちろん、数学教師のマクロウとフランス語の教師マドモワゼルも引率として一緒だ。街を抜けたら手袋を外してもよい、とアップルヤード学長から特別に許可をもらった女学生たちは街を抜けるやいなや色めきだす。ハンギングロックのふもとでは、各々がゆっくりと流れる時間に身を任せ、一時の解放感を味わっていた。

しかし、一人だけ外出を許されなかった女学生がいる。それは、サラだった。サラは、孤児院育ちで、美しいミランダに親愛を寄せていた。サラは、ヘイマンズ夫人の詩を暗記できていない、という理由でアップルヤード学長に外出を禁止された。他の女学生たちが外出している間、部屋に閉じ込められ、ヘイマンズ夫人の詩を暗記するように言われるが、サラは断固として覚えようとしない。

一方女学生たちは、ハンギングロックのふもとで、不思議な体験をしていた。各々の持つ時計のすべてが正午で止まっているのだった。だが、陽がまだ高いことから、特に気にする様子を見せなかった。ミランダと、イルマ、マリオン、そして間抜けのイーディは、アップルヤード学長の教えに背き、ハンギングロックを上へと探索に出かけた。途中で疲れを感じたイーディスはふもとに戻ろうと、主張するも、ミランダたちはどんどんと上へ登っていく。

家路へ戻る時間になり、まだミランダ達4人が戻っていないことに気づくと、数学教師のマクロウは4人を探しにハンギングロックを登る。イーディスは叫びながら岩を下り、ぼろぼろの状態で一行のもとへ戻ってきた。探しに出かけたマクロウは、戻ってくる気配がない。帰宅時間の8時になっても4人が戻らないため、フランス語教師のマドモワゼルは、女学生たちを学校に戻した。時刻はすでに10時半を回っており、学校に着くころには、女学生たちは4人が戻らないことにパニック状態になっていた。

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マリオン達とハンギングロックを登っていたイーディスはパニックで事情を説明することができず、ただ岩を下る最中に数学教師のマクロウがスカートをはいていない姿で上へと上っていったのをちらっと見たことしか言うことができない。警察と地元の人々の捜索は続き、ある目撃者にたどりつく。英国人のマイケルとその下僕のアルバートだ。マイケルとアルバートは、マリオンたちが失踪したとき、ちょうどハンギングロックでランチを取っており、マリオン達が通り過ぎるのを木陰から目撃していた。マリオンの美しさに魅入られたマイケルは、マリオン達が失踪していると知り、自分ひとりでハンギングロックへ捜索に向かう。アルバートは、マリオン達を捜索にでかけたマイケルがハンギングロックの途中で顔から血を流し、瀕死の状態で倒れているのを発見する。そしてマイケルの意志を継いで捜索を続けると、イルマが倒れているのを発見することができた。イルマは意識はないが、特に外傷も見られない。

病院に搬送されたイルマは、警察からの事情聴取にも、ハンギングロックで何が起こったのか全く記憶がなく、答えることができなかった。パニック状態のまま、月日は流れ、不吉なことが起こったこの女子学校から、女学生を退学させる保護者が次々と出てきた。奇跡的に助かったイルマも両親とともにヨーロッパに向かうこととなる。その知らせを聞いた女学生たちは、最初イルマを祝福するも、ハンギングロックで何が起こったのか、と祝福が怒りに変わり、イルマに暴行を与える騒ぎになった。

女子学校の危機に陥り、アップルヤード学長はサラに対してさらにきつく当たる。サラの授業料が納められていないことで孤児院へ送り返すことをサラに告げた。次の日、サラは部屋の窓から落ちて死んでいるのが発見された。アップルヤード学長もその後、ハンギングロックで命を絶つ。

 

撮影に関して

監督のウィアーは、ミランダ役にイングリッドメイソンを考えていた。というのも、ミランダ役を演じたアンルイーズランバートは、オーディションの際、他の候補の女優たちとは違うよそよそしさを感じたからだという。しかし、ウィアーは思い直し、ミランダ役こそ、ランバートのようなよそよそしさが必要だとランバートをミランダ役に起用した。一方、イングリットメイソンは、ロザムンド役で出演している。

 

撮影はオーストラリアのビクトリアにあるハンギングロックで行われた。女子生徒役で出てきた女優達はみな新人で、彼女たちの声は撮影後アフレコされたという。しかし、極秘に行われたため、声優の名前はエンドクレジットには出てこない。

 

白昼夢

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本作品の特徴の一つとして、白昼夢を見ているような印象を得ることがあげられるが、ハンギングロックをはじめとするオーストラリアの自然を幻想的に描くために施したカメラ技術によってこの雰囲気は醸し出されているといえる。ハンギングロックの撮影では、カメラのレンズにウェディングに使用するヴェールをかぶせたという。これによって、ハンギングロックには薄いもやがかかったかのように見え、崇高さすらも感じることができる。立ちはだかる自然を前に、人間の小ささが強調される。

 

さらに、夢のような印象は、本作冒頭ですでに与えられている。冒頭でミランダが読み上げるのはエドガー・アラン・ポーだ。「見えるもの 私たちの姿も ただの夢 夢の中の夢」という一節が冒頭で読み上げられるのだが、もうすでにこのときから女学生たちの失踪が暗示されていると言ってもいい。日本においても昔から山には神隠しが存在するなど、自然の驚異は万国共通である。壮大な自然の力を持つハンギングロックの前では、女学生たちはその力にいとも簡単に飲み込まれてしまうのがすでにこの冒頭ではっきりしている。

 

また、映像技術だけでなく、音楽でも自然の神秘さや驚異といったものを感じ取ることができる。音楽は、冒頭にもあるように、オーストラリアの風景描写にはルーマニアのパンパイプの楽曲を使用している。

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原作と映画

ジョーンリンジーによる原作は、1967年に出版された。ピーターウィアーによって映画化されたこの原作も、なぜ女学生たちが失踪したのかは明らかにしてはいない。しかし、驚くべきことに、実は原作には未公開の最終章があり、その最終章でハンギングロックで女学生たちに何が起こったのか種明かしされていたのだそうだ。しかし実際の出版の段階で、出版社のすすめもあってこの最終章がカットされた。そのため、何の解決のないままストーリーが終わってしまい、読む者や見る者の思考にしこりを残して様々な議論を呼び起こしてきた。

 

原作の映画化はピーターウィアーが初めてではない。というのも、初めて映画化を試みたのは、トニー・イングラムという14歳の若き映画監督だった。トニーは、ジョーンリンジーから許可をもらい、The Day of Saint Valentineというタイトルで撮影を始めていたが、10分程度撮影が済んだ時点でピーターウィアーが映画化の権利を獲得したため、トニーの作品はお蔵入りとなってしまった。一方ピーターウィアーの『ピクニックatハンギングロック』は、オーストラリアのヌーベルヴァーグ的作品となり、かつオーストラリア映画として初めて国際的にヒットした作品となった。

 

本作では、ハンギングロックで休憩をしていた女学生たちの時計がすべて正午で止まってしまう、というシーンがあった。これは原作をもとにしているのであるが、興味深いことに撮影期間中も同様な出来事が起こったという。というのは、撮影クルーがハンギングロックで撮影を行っていると、各々が持っている時計がそれぞれ遅れたり早まったりしていたのだそうだ。誰ひとりとして正しい時間を示した時計を持っていない、という状況になったという。

 

エンディング

あるインタビューによると、ピーターウィアーはエンディングに答えを提示しないこの『ピクニックatハンギングロック』を撮影する際に心配したのは、観客が解決されないストーリーを受け入れてくれるかどうか、という点だったそうだ。ウィアー自身は、そのような解決しないストーリーこそ自然であって、ありきたりな映画のように答えや結果を提示して終焉を迎える物語に不自然さを覚えていたという。映画が終わっても人生には終わりがない、というのが彼の言い分だったそうだ。

 

テーマ

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ウィアーが意識したのは、映画中盤でそれまで神秘的なイメージで描いてきたハンギングロックの存在を女生徒達を飲み込む不気味で不可解な存在に変えることだった。そのため、映画後半からは、物語中の人間関係にはいくつもの緊張が生まれ、登場人物は閉鎖的な空間に追いやられていく。例えば、ピクニックに参加できなかったサラは、一人で部屋に閉じ込められ、詩の暗唱をさせられる。しかし、サラは暗唱を拒み、アップルヤード学長がサラに精神的苦痛を与える。そして、例え外であっても閉鎖的な空間はハンギングロックでもつくられている。ハンギングロックを上り始めたミランダ達は、頭上に高くそびえる岩山に囲まれて、次第に無言になり、イーディは突然絶叫し一人で岩山を駆け降りる。本作品は、女学生たちの失踪がメインテーマになってはいるが、彼女たちを取り巻く人々の葛藤も大きなテーマとして存在する。  たとえば、身寄りのないサラと、たった一人の妹を探すアルバートは、明らかに兄妹であるが、サラは自殺をしてしまい、最後まで真相が明らかにならない。

 

また、突然いなくなることから、エイリアンによる拉致とも考えられなくない。こうなると、SFの域に入ってしまうが、そのようにとれる要素が全て映画内にある、とピーターウィアー自身も否定はしていないようだ。しかし、ウィアーの興味の対象はそれではなく、失踪することで醸し出される空間の雰囲気こそ彼の意識するところだったそうだ。

 

ディレクターズカット

1998年には、ディレクターズカットが劇場公開された。多くの映画監督はたいていディレクターズカットになると、削除したシーンを追加することが多い。これとは違い、ピーターウィアーは、長すぎるシーンやそぐわないと感じるシーンを計7分間分を削除したのだそうだ。

 

参考文献

http://www.hangingrock.info/picnic/weir/weir.html

http://www.peterweircave.com/articles/articleg.html

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