トリコロール 赤の愛


監督 クシシュトフ・キェシロフスキ
主演 イレーヌ・ジャコブ


あらすじ
ヴァランティーヌ(イレーヌ・ジャコブ)はジュネーブに住む女子大生でモデルとして活躍している。 ロンドンに住む彼氏とは遠距離恋愛中だ。 隣のビルにはオーギュストという裁判官試験を控えた青年が住んでいるが、 ヴァランティーヌは知らない。 ある日、帰宅中にカーラジオの調子がおかしくなり、気をとられて犬を轢いてしまった。 首輪から、飼い主の所在がわかり、車で飼い主の家へ向かう。 飼い主はジョゼフという初老の男だが、リタを引き取ろうとしない冷たい態度を示した。 そこでヴァランティーヌはリタを病院へ連れて行き、幸い大事には至らなかった。 その後、リタが行方不明になり、リタはジョゼフの元へ戻ったのでは、 と彼の家を訪ねるヴァランティーヌ。そこでジョゼフが近所の電話を盗聴していることを知る。 自分が正しいことをしていると思うヴァランティーヌは、盗聴を止めさせようとするが、 盗聴をするのは、真実がそこにはあるからだとジョセフはいう。 しかし、ヴァランティーヌの清廉さに触れ、ジョセフは自分で自分を密告する。 同じころ、ヴァランティーヌとオーギュストはそれぞれ恋人との仲が上手くいっていなかった。 ヴァランティーヌはミシェルの挑発的な電話に疲弊し、 オーギュストは恋人が浮気をしている現場を目撃し、激しい悲しみを感じる。 ヴァランティーヌはファッションショーにジョセフを招待する。 そこで、ジョセフは過去の悲劇をヴァランティーヌに話し、二人の間には友愛が生まれるのであった。 その後、ヴァランティーヌはミシェルに会いに、 オーギュストは恋人カロルと浮気相手を追いかけて、イギリス行きのフェリーに乗る。 しかし、嵐に巻き込まれ、大事故となり、何千人の乗客のうち、 ヴァランティーヌとオーギュストは運よく助けられるのだった。

監督は、1996年に突然この世を去ったクシシュトフ・キェシロフスキ。 この『トリコロール 赤の愛』は『青』『白』に続く3部作の最終章でもあり、彼の遺作となった。 キェシロフスキは、ポーランド出身であり、20代前半に、 アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキも在籍したウッジ映画学校を受験するも2度失敗。 その間兵役を逃れるため食事制限をして不健康を装ったりしていた。 3度目の1964年、ようやくこの映画学校に入学が認められる。 以前に興味のあった演劇から、ドキュメンタリーに目覚めるものの、 検閲等、当時のポーランド情勢から、より芸術的自由が許され、 人々の生活の真実に迫ることのできるフィクションを作ることになる。

『デカローグ』は1988年、ポーランドのテレビ番組用に、西ドイツから資金を集めて作られた。 10話からなり、『十戒』の一つ一つになぞらえて作られている。 中でもエピソード5と6は再製作され、『殺人に関する短いフィルム』 と『愛に関する短いフィルム』として劇場上映されている。 遺作となった『トリコロール』三部作は、国際的に認められた作品であり、 数々の映画祭で賞を受賞している。この『トリコロール』を完成させたとき、 キェシロフスキは監督業から引退を宣言していたものの、 亡くなる直前、ダンテの『神曲』を構成する地獄、煉獄、天国をモチーフに新たな三部作を 作ろうと脚本を練っていた。そのうち天国だけ脚本が完成しており、 あとの煉獄、地獄は30ページほどしか終わっていなかったという。 この天国がケイト・ブランシェットのスキンヘッドも見られる『ヘブン』として、 トム・ティクヴァ監督によって映画化された。

キェシロフスキは自分のことを「アーティスト」とは呼ばず、より職人的な「アルチザン」と呼ぶ。 その理由を、彼はこういう。本物のアーティストは「答え」を探すからだ、と。 自分のことを「アルチザン」と呼ぶのはレンズの使い方や、編集の仕方など、 テクニカルな部分のことについては知識があるが、 「どう生きるか?」や「どうして人は生きるのか?」といったことに関しては答えを求めないのだ、 とほのめかす。

『トリコロール』三部作はどのような工程で作られたかというと、 まず最初に1992年の9月から10月にかけて『青の愛』の撮影が行われた。 そしてこの『青の愛』の最終日に法廷でのシーンが被る『白の愛』の撮影が始まった。 『白の愛』の30%ほどはパリが舞台のため、先にパリでの撮影を済ませ、 ポーランドで残りを撮影した。その後、10日間ほどの休みを経てジュネーブへ渡り、 1993年3月から5月にかけて『赤の愛』の撮影を行ったのである。 撮影が始まる前に脚本は十分に練られていたという。 その他、3部作は3つの国が舞台になり、 『赤の愛』での緻密なロケーション設定などからもわかるように、 ロケーションハンティングにはかなりの時間が割かれた。 撮影担当は3部作全て違う人物が担当している。 『赤の愛』の撮影はピョートル・ソボシンスキであるが、 キェシロフスキは彼のことを若いが有能だとしている。 ソボシンスキは『赤の愛』後、ハリウッド映画の製作に携わることが多くなっている。

どうしてトリコロールの表す「自由、平等、博愛」に興味があるのか、という質問に対し、 キェシロフスキは「デカローグ」で表現された「十戒」と同じように、 人間が生きるうえで欠かせない要素となっているこの3つの理想が私たちの生活にどう影響 しているのか、現在の私たちにどのような意味をなすのかを表現したかったという。 実際、この「自由、平等、博愛」といった理想は、私たちの普段の生活とは相反するものである。 ヴァランティーヌは道端で知らないおばあさんを見かけたら助けずにはいられない、 「博愛」を実践しているような人間ではあるものの、100%実践しているかというと、 そうではない。彼女の心にも、弟を苦しめるドラッグディーラーに「死ねばいい」と 悪態をつくような一面も必ずみられる。そのような矛盾した人間を映し出している。

登場人物の名前について、キェシロフスキはヴァランティーヌ役のイレーヌ・ジャコブに、 「幼いころに一番好きだった名前は?」と聞いたところ、「ヴァランティーヌ」であったため、 そのままこの名前が『赤の愛』のヒロイン名になったという。 また、『白の愛』のカロルは、ポーランド語であり、英語でいう「チャップリン」であるそうだ。 この背の低いカロルには、チャーリーチャップリンのような喜劇的な面があるために、 彼にちなんでカロルと名づけられた。

「計算しつくされたオープニング」
ヴァランティーヌとオーギュストは本当に近くにいるのに最後の最後まで出会うことはない。 しかし、映画が終わった後も、ヴァランティーヌとオーギュストが恋に落ちて幸せになるに違いない、 と想像してしまうのはなぜか?一見単なる想像にすぎないと思いがちだが、 実はちゃんとした根拠がある。 というより、キェシロフスキはミサンセーヌ=画面上に写る全てを緻密に構成することで、 二人が運命の二人であると観客が思うように仕向けているのだ。

というのも、オープニングシーンは、 ヴァランティーヌとオーギュストという見ず知らずの二人がいずれ出会う運命であることを 示唆している。オープニングは簡略化すると以下のように構成されている。
<シーン1>
男性の手が電話をプッシュする。ヴァランティーヌの彼氏、ミシェルの手。 壁にはヴァランティーヌの写真が飾られている。
<シーン2>
カメラは電話の相手の所へ電話線を伝う。海を越えるので、おそらく遠距離電話だ。 しかし、つながらない。赤いライトが点滅をしている。
<シーン3>
ミシェルはもう一度電話番号をプッシュする。
<シーン4>
ミシェルとは違う男の登場。オーギュストの部屋。 犬の散歩の準備をしているオーギュスト。部屋には赤いソファ、 そして踊るバレリーナの絵がかけられている。
<シーン5>
オーギュストはマンションを出る。通りには赤い車が止められている。 カメラは犬を散歩するオーギュストを追いつつも、次第に隣のマンションへとパンする。 1階には「ジョセフ」というカフェの看板が見える。 「ジョセフ」とはヴァランティーヌがこれから出会う、判事の名前と同じだ。 次に2階部屋の中へズームインしていく。カメラは窓の外からズームイン。 部屋には赤いソファ、赤いテーブル、赤いベッド…電話がなっている。ミシェルからだ。 留守番電話に切り替わり、「ヴァランティーヌ」の名前を連呼すると、 ようやく彼女が電話を急いで取り上げる。 遠距離であり、かつなかなか電話がつながらない二人の関係はあまり良いとはいえない。 窓からはオーギュストのマンションの入り口が見える。 そこにオーギュストが散歩を終えて帰ってくる。しかし、ヴァランティーヌは気づかない。
<シーン6>
再びオーギュストの部屋。今度はバレリーナの絵がアップになる。 オーギュストは電話をかける。相手は天気予報サービスだ。 そこで電話越しにキスを一つ送り、すぐに電話を切るオーギュスト。

この『トリコロール 赤の愛』のオープニングにはかなり重要な情報が詰まっている。 オープニング5分だけ見ても、わからない部分がほとんどなのであるが、 それらの情報は全て後で出てくるものと重要なつながりを持っているのだ。 たとえば、「ジョセフ」の名がつくカフェは、判事ジョセフの登場を予兆している。 また、オーギュストが犬を飼っているのは、 後に出てくる判事ジョセフとの密接なつながりを示唆している。 そしてオーギュストの部屋に飾られているバレリーナの絵。 これはつまりオーギュストの中でこの絵のイメージが美しいものとして 存在していることは想像しやすい。 そのすぐ後に、ヴァランティーヌもバレエのレッスンを受けていることを私たちは知る。 そしてヴァランティーヌはあの絵の中のバレリーナとほとんど同じポーズをとるのである。 キェシロフスキはこの5分ほどのオープニングですでにオーギュストとヴァランティーヌを結ぶ点を 一つ露呈させているのだ。

また、オープニングの登場人物がミシェル、ヴァランティーヌ、 そしてオーギュストという2男1女の構図なのである。 その中でも、ミシェルはなんと手と声だけの出演。 ミシェルがどんな顔をしているのか、観客は最後まで知らない。 つまり、ミシェルは重要ではないのだ。 それよりもこんなに近くに住んでいるのに見ず知らずのヴァランティーヌとオーギュストが カメラの同じフレーム内にいることで、観客は二人の仲にただならぬものを感じ取ってしまう。

「偶然と運命」
『デカローグ』にも、この『トリコロール』三部作にも、人々の偶然の出会いが頻繁に描かれている。 キェシロフスキはこの偶然の出会いに非常に興味を持っている。 それは彼が普段感じていることであるが、 毎日気付かないうちに知っている人と偶然すれ違っているかもしれないし、 カフェでは全く知らない人と隣り合わせになり、その人が去ればまた別の人が座る。 二度と会わないであろう。また、もう一度同じ人と出会ったとしても、 決して前に会ったとは気付かないのである。こういった人間の偶然の出会いは、 『デカローグ』の一つである、『殺人に関する短いフィルム』のほうが重点を置いている。 むしろこの『トリコロール』では熱狂的なシネフィル達が、 映画の細かい点で3部作のつながりを発見することに快感を得てもらえるよう、 施したちょっとした遊びのようなものだ、とキェシロフスキは語る。

とはいえ、この『赤の愛』では登場人物が運や運命といったものに大きく左右されているのが よく見られる。そしてクライマックスの嵐が示すように、 与えられた運命に対して、人は自分ひとりではどうしようもなく、 良くも悪くも翻弄されるしかない出来事が度々あるものだ、と言っているかのように感じる。

ヴァランティーヌは、カフェジョゼフに設置されているスロットマシーンを 毎日1回まわすのを日課にしている。「当たり」が出ることは本来「まれ」であるため、 「ハズレ」であればその日一日を何事もなく過ごせ、 「当たり」が出ればめったにないことが起こる不吉な予感を持つヴァランティーヌ。 彼女はいつものようにカフェに向かい、まず新聞を手にすると、 弟が麻薬の被害にあっていることを紙面から知り、ショックを受ける。 そしてスロットを回すとチェリーでそろい、ますます不穏な思いを抱くのである。 事実、この後彼女には嫌なことが多く待ち受けている。

また、運や偶然に左右されるのは、ヴァランティーヌだけでなく、 オーギュストもそうである。オーギュストは、裁判官試験を控えており、日夜勉強をしている。 ある夜、道路を歩いていると、抱えていた書物をバラバラと落としてしまう。 それらを拾い上げていると、一つだけページが開いている本があった。 このときは何も思わないオーギュストであったが、 いざ試験のときに偶然開いたページが問題にでているのを知り、 そのために試験に受かったと感激するのである。

「ジョセフの盗聴と映画を見るという覗き見の行為」
ジョセフは盗聴することによって「真実」を見出そうとしている。 ヴァランティーヌはこのジョセフの行為を卑劣だとし、やめさせようとする。 彼女は、自分が正しいことをすることに価値を置いており、 私たちも彼女の思いと共感できる部分がある。 しかし、一方で私たちは「映画を見る」という「他人の生活をのぞき見る」ことに ある種の快感を得ているのは事実だ。ヴァランティーヌの行為を正しいとしながらも、 ジョセフがプライベートな会話から真実を見出そうとするように、 映画を見ることによってその中から真実や、悪、本性、そして快感を盗み取る。 ヴァランティーヌが盗聴器から流れてくる会話に耳をふさぐのは偽善であり、 本来私たちは他人の生活に興味があるのは否めない。

他人の生活を「覗き見る」行為は何もジョセフの盗聴にだけ表現されているわけではない。 というのは、この『赤の愛』は全体的に窓越しのショットや建物の外から中を覗き込んだり、 あるいは逆に中から外を覗き込んだショットがあまりにも多い。 それらは、全て登場人物が、あるいは私たち観客がのぞいているからに他ならない。 挙げればきりがないが、
@ヴァランティーヌが、轢いてしまった犬のリタを連れて飼い主ジョセフのもとへ行くとき。 ヴァランティーヌは家の中まで入り込む。カメラはゆっくりと薄暗い家の中を進む。 このとき、どんな人物がリタの飼い主なのか、と興味と不安は高まる。
Aリタの手術代として多額の金額がジョセフから送られてきたので、 ヴァランティーヌはまた彼の家へ向かう。細かい小銭を持ってくるから、 とジョセフに家の外で待たされるヴァランティーヌ。 ジョセフがなかなか戻ってこないので、ヴァランティーヌは外から家の中をのぞく。 その行為を、カメラは木と木の間から覗くように捉える。
Bオーギュストは自分の彼女が浮気をしているのでは、と不安に駆られ、 彼女のマンションの壁を横ばいに登っていき、彼女の部屋を窓からのぞき見る。 中では彼女と別の男が情事の真っ最中であった。
Cジョセフが唯一盗聴できない相手が隣に住んでおり、 その男こそがこの一帯の麻薬取引を統括している人物だ、とヴァランティーヌに告げるとき。 二人は家の中から窓越しに庭で電話で通話している、男を覗き見る。

自分の知らないところで何が起こっているのかは決して本来知ることはできない、 とわかっているからこそ、人はよりいっそう興味をかきたてられるのである。 そして、そこには大抵驚くべきことや、あられのない真実が待ち受けている。

「ジョセフとオーギュスト」
ジョセフとオーギュストには多くの共通点がある。 まるで、オーギュストがジョセフの生まれ変わりであるかのように、 ジョセフが若いころに経験したことをオーギュストも体験するのである。 ジョセフは、ヴァランティーヌのことを、まだ出会ったことのない女性、 若いうちに出会っていれば自分を奈落のそこから救い出してくれたであろう女性として考えている。 今、オーギュストは、ジョセフが昔層であったように、信じていた女性に裏切られ、自暴自棄である。 決して映画の最後まで二人の関係を発展させはしないが、ヴァランティーヌに出会えれば、 オーギュストは幸せになれるのではないか、 という望みを観客に抱かせるに十分な類似をそこかしこに提示している。

たとえば、犬の存在。ジョセフは犬を飼っているが、ヴァランティーヌに出会うまで、 犬に対する愛情を持っていなかった。 いや、持っていたとしても、生き物のぬくもりを拒否して生きてきた。 そのため、迷子になったリタをあえて探そうとしなかったし、 ヴァランティーヌが轢いてジョセフの元につれてきても受け取ることを拒否した。 これは、オーギュストも同じで、今まであれほどかわいがってきた飼い犬を、 カリンという彼女の浮気を知ったとたん、犬に対して暴力を振るったり、 道端に置き去りにしようとした。

また、ジョセフとオーギュストに起こった恋愛の悲劇もほぼ一致する。 物語後半、ヴァランティーヌのファッションショーにジョセフは招待される。 ショーが終わった後、二人は舞台袖で話し始める。このとき、ジョセフに起こった過去の悲劇と、 その顛末をヴァランティーヌと観客は知ることになる。

ジョセフはオーギュストと同じように、判事を目指していた。 当時、2歳年上でブロンドの女性と付き合っていた。 たまたま、試験のために勉強していた本を落とし、 ページが開いた部分がそのままテストに出たことで彼は試験に合格した。 そのお祝いに、彼女から万年筆をプレゼントされ、 ジョセフは自分で自分を告発するまで30年以上大切に使っていた。 あるとき、彼女が浮気をしているのを知る。それも2人の情事の最中を目撃したのだった。 ジョセフは嫉妬に駆られ、二人を追いかけた。二人はイギリスに渡った。 しかし、その彼女は死んでしまった。そこでジョセフは人を信じるのをやめたのだという。

しかし、ジョセフはこうも言う。ほかの女性に出会えていたら、変わっていたのかもしれない。 それはヴァランティーヌだったのかもしれない、と。

今、私たち観客はオーギュストにも同じことが起こっているのを知っている。 ジョセフのこの言葉を耳にしたとき、 お互い近くに住んでいるが、 まだ出会うことのないヴァランティーヌとオーギュストが知り合うことができたならば、 ジョセフに起こったような事態がオーギュストに起こることを防げるかもしれない、 と願うことは自然なことである。

「カタルシス」
物語や映画には、 クライマックスにこれまでの流れを無にしたり飲み込んでしまうような突然の出来事が 挿入されることが多いが、この『赤の愛』もそうである。 最後にヴァランティーヌたちが飲み込まれる嵐には、抗うことのできない自然の力の前に、 人間はただ翻弄されるしかないことを目の当たりにするとともに、 登場人物の抱えている不安や失望を払拭する効果がある。 ヨット旅行に出かけたカリンと浮気相手を追いかけたオーギュスト。 この事故のニュースでヨットに乗った二人組も死亡した、と報道されたが、 おそらくこの二人組はカリンとその相手だと思われる。 となると、オーギュストの嫉妬は消え、悲しみの果てにまた新しい生活をスタートさせることになる。

また、三部作を結びつけるのもこの嵐である。 三部作の中で幾度かその関係性が表れるシーンが挿入されている。 たとえば、ジュリエットビノシュが『白の愛』の法廷に出てきたり、 全三部に同じ老婆が出てきたりする。しかし、まだその関係性ははっきりとはしない。 この『赤の愛』の最後の最後でたった7人の生き残りが三部作の主要人物であった、 とわかるのである。

最後に、ニュースは救出されずぶぬれになったヴァランティーヌの横顔で静止する。 これは、どこかで見たことがある、 そう、ヴァランティーヌがモデルとなっている大きな看板と全く同じなのである。 そのことを知るのは、ジョセフと観客のみ。 ジョセフは割れた窓ガラス越しに、涙を流し、物思いの表情をカメラに向ける。 この涙は、人を信じることをやめたジョセフだったが、 ヴァランティーヌと自分に瓜二つのオーギュストの生還は、 人としての心を取り戻し、ヴァランティーヌへの信頼を持ち始めたことの現れであろうか。

参考文献
http://zakka.dk/euroscreenwriters/interviews/krysztof_kieslowski_04.htm






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