『ロープ』1948年



監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジミー・スチュアート


『ロープ』は、1948年、ヒッチコックが初めてカラーで撮影した映画であり、 そして実験的要素を持った映画である。 ヒッチコックはこの『ロープ』で初めて監督兼プロデューサーの地位についた。

あるマンションの一室のみでストーリーは展開し、 時間の流れも、全く現実と一緒だ。 映画はパトリックハミルトンの同名劇Ropeをベースにしている。 このハミルトンのRopeは、 1924年に実際に起きた殺人事件からヒントを得て出来上がったといわれる。 レオポルドとローブというシカゴ大学の二人の学生が一人の若者を殺害した事件だ。 しかし、ハミルトンは、 自分の書いた劇Ropeがこの事件とは関連がないと主張していた。

あらすじ
ある昼下がり、ブランドンとフィリップはデイビッドをアパートの中で絞殺する。 そしてデイビッドの死骸を木のチェストの中に隠す。 デイビッドが殺されたのは、怨恨でも何でもなく、 快楽的殺人におけるニーチェの理論を実践したに過ぎなかった。

ブランドンとフィリップは、 その後何気ない顔でディナーパーティの準備に取り掛かる。 彼らがもてなすのは、殺されたデイビッドの父親、 叔母、そして彼のフィアンセ達だ。 死骸を隠したチェストは、 ディナーパーティーはディナーテーブルとして使われる。 そして遅れてルパート・キャデル(ジミー・スチュアート)という ブランドンたちの教授もやってくる。

彼らの会話の中心は、やはりいつまでたってもやってこないデイビッドについてだ。 デイビッドから連絡がないことに不安を感じ、 デイビッドの父親は一度パーティを去ることにした。 そのとき、ブランドンはいくつかの本をデイビッドを絞殺するときに使った ロープで縛ってデイビッドの父親に渡した。

一つの誤算は、教授キャデルが去るときに、 間違ってデイビッドのイニシャルが入った帽子を手渡されたことだった。


キャデルは、ブランドンとフィリップの不自然な姿勢と、 この帽子から、デイビッドの身に何かが起こったことを悟る。 そして一度は帰ったものの、忘れ物を取りに戻ってくるのだった。

ロングテイク
ヒッチコック映画のなかで、あまり評価が高くないこの作品。 技術上の問題からつながざるをえないものの、 カットを最小限に抑え演劇的作品に仕上げることによって、 他作品とは異なるハラハラ感と、 役者とヒッチコック自身のテクニックを感じさせられる。 ヒッチコックは、映画が演劇のように、 ストーリーが現実と同じ時間で流れる方法をこの『ロープ』で試した。 その方法が、カットを極力減らすロングテイクの手法だ。

フィルムをカットなしで長回しすることで、 現実と同じ時間の流れを表現したこの映画は、 実際には、10分以内にカットが入っている。 というのも、当時の撮影技術では、 一つのフィルムで撮影できるのが10分と決まっていたからだ。 だが、カットはよく見ないとわからない部分に入っており、 普通に見ているだけでは気付かないままの方が多い。 俳優の背中がスクリーン全体を覆ったり、 家具の裏にカメラが回るタイミングで挿入し、 カットと思われないカットを巧妙に実現した。 10分とはいえ、10分ぎりぎりまでフィルムを回したのかといえば、 別にそういうことでもない。 約10のカットが入っているが、7〜8分でカットされたり、 最後のシーンは5分前後という。 熱心な観客が、ストーリーもそっちのけでどこに カットが入っているかに執心する気持ちもうなずける。 このロングテイクの手法は、 ヒッチコックの次の作品『山羊座のもとで』でも使われた。

撮影も映画の冒頭、 明るいNYの町並みを映し出す以外は全てマンションの一室で行われる。 90分弱という時間の流れは、 窓ごしに写るNYが夕焼けに変わり、 だんだんと暗くなって街のネオンが輝きだすことからもうまく表現されている。

カメオ
ヒッチコック自身のカメオ出演は、 彼が監督する映画のお決まりとなっているが、 この『ロープ』では、かなり早い段階で出てくる。 映画冒頭の町並みを映したショットの中に、 ずんぐりしたおじさんが町をカメラを横切るのがちゃっかり写っている。 しかし、それだけではない。かなり難易度が高くなるが、 映画の後半で、マンションの一室から街のネオンサインが見える。 そのネオンの一つに”Reduco”というサインがある。 これは、ヒッチコックの『救命艇』の中で出てきた。 こうなると宝探しのようになってくるが、 ”Reduco”という痩身薬のBefore/Afterの写真がヒッチコックなのだ。 ヒッチコックの前作までをリンクさせるこのワザは、 観客に対する挑戦のようだ。

ホモエロティシズム
決してホモエロティシズムをテーマにした映画ではないのだが、 ブランドン役のジョン・ドールとフィリップ役の ファーリー・グレンジャーは、 この『ロープ』はクィーアフィルムのジャンルに入るのではないか、と言う。

この『ロープ』が製作された1940年代というのは、 まだホモセクシュアリティに対する規制が色濃くあった時期である。 映画自体はホモセクシュアリティのメタファーを存分に含んでいるにもかかわらず、 検閲は通っている。 映画の基となった劇Ropeは、 同性愛者であったレオポルドとローブの事件を題材にしていたし、 『ロープ』を脚本家したアーサー・ローレンツも同性愛者であった。 フィリップ役のグレンジャーが映画内で演奏した ピアノ曲もフランシスプーランクというバイセクシュアルの作曲家のものだった。 フィリップ役のグレンジャー自身も、バイセクシュアルである。

最初、フィリップ役には、 バイセクシュアルの俳優モンゴメリー・クリフトにオファーされていた。 しかし、モンゴメリー・クリフトは、公言してしまうことを恐れ、 オファーを断っている。ジミー・スチュアートが演じたルパート役も、 最初はケーリー・グラントが演じることになっていたが、 グラントも自分のイメージが崩れることを恐れてオファーを断っている。

映画のストーリー内にもホモセクシュアリティを露呈するような表現がある。 初めにデイビッドを絞殺した後、ブランドンはシャンパンのボトルを開ける。 その行為は、マスターベーションのメタファーとして考えられる。 また、その後すぐに、セックスをした後のようなけだるさも表現される。 ブランドンはタバコの煙をくゆらせながら、 カーテンを開けようとする。 フィリップはカーテンを開けて欲しくない、という。 殺人を犯したことだけでなく、 同性愛という日陰の存在である二人を思うため、暗いままがいいのだ。

このように、普通では、見過ごしてしまうくらいの小さな仕草ではあるが、 これこそが1940年代の検閲をくぐり抜けるために必要な、 ヒッチコックが行った機転の利いた表現方法である。

観客の視点
デイビッドは冒頭すぐに殺され、 チェストの中に閉じ込められるので残りの時間はいつその死骸が発見されるか、 とハラハラしながら観客は映画を見る。 カメラもその間何度も閉じられたチェストと そこからはみ出しているロープをとらえ、 デイビッドがそこにいる、という存在感と いつ発見されるのかという緊張感を伝える。 招待客の会話の中心はまだやって来ないデイビッドであるが、 デイビッドは実際にチェストの中に「いる」にはいるが、 すでに「死んでいる」ことに観客はもどかしさを感じるのだ。

特におもしろいのは、観客の視線をフィリップとブランドンに合わせ、 あたかも共犯者のように感じさせてしまうところだ。 しかし、それだけではなく、 殺人者たちよりも早く情報を与えて焦燥感を駆り立てる。 たとえば、死体を隠したチェストからロープが出ていることは、 私たちが一番に気づく。 だがフィリップとブランドンは気づかない。 そして私たちはひやひやさせられてしまうのである。

しかし、後半はジミー・スチュアート演じるルパートの視線に切り替わる。 ジミーが好きな人はすぐわかるだろうが、 映画の中盤にならないとジミーが出てこないのである。 招待客たちは来るはずのデイビッドと、 ジミーの話題でもちきりだ。 まだかまだかと待っているとやっと彼が登場する。 映画が始まって約30分後のことである。 やっとでてきた大スターに、 当時の観客はここで拍手喝采を送ったのではないだろうか。

ジミー登場後の談笑の場は、映画の話になる。 ここでもヒッチコックは自分の存在をアピールする。 話はケーリーグラントとイングリットバーグマンが出ている映画についてなのだが、 そのタイトルがみんなわからない。 ここで、観客もなんだっけ?と思うわけだ。 わかった人は、ああ、ヒッチコックの作品じゃないか!と笑ってしまう。

参考文献

http://www.reverseshot.com/article/rope

http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E02EFDA143AF930A35755C0A962948260&sec=&spon=&pagewanted=all