『西瓜』(2005)



監督 ツァイ・ミンリャン
出演 リー・カンション

台湾は、干ばつの影響で水不足の真っただ中だった。 女(チェン・シアンチー)は、道端に落ちている空のペットボトルをかき集め、 公衆トイレの水をくすねて持ち帰る生活を続けている。 そんな中、メディアは代わりにスイカから水分を取ることを奨励し、 街にはスイカがあふれていた。 ある日、川から大量のスイカが流れてきた。 シァンチー(チェン・シアンチー)は、スイカを一つ持ち帰る途中、 公園で昔の知り合いシャオカンに再開する。 二人には恋心が芽生える。 ただ、シァンチー(チェン・シアンチー)はシャオカンが名の知れたAV男優であり、 自分のマンションの上で撮影をやっていることは知らない。

監督はマレーシア出身の台湾人監督ツァイ・ミンリャン。 アンニュイやディスコネクションは、 ツァイ・ミンリャンの作品の中から感じられるものであるが、 特にこの『西瓜』は『ふたつの時、ふたりの時間』や 短編『歩道橋』の続編とも呼べるつながりがある。 『西瓜』は第55回ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞している。 また、第78回アカデミー賞外国語映画賞の候補にも選ばれた。 日本のAV女優「夜桜すもも」が台湾アンダーグラウンドのAV撮影に 参加する日本人AV女優として出演していることも興味深い。


喜劇的濡れ場

監督ツァイ・ミンリャンは、 この作品の中でセックスを滑稽なものとして非ドラマティックに描く。 そしてAV作品撮影のエロスのかけらもない裏側を見せることで、 AV業界のからくり、つまり一瞬の快楽を金銭に換算する産業の地道な撮影や、 私たちがお金を払ってまでAV作品を見ようとする衝動を客観視する。 そしてAVでのセックスを機械的なものとして表現する。

例えば、映画冒頭。空になったスイカの皮を帽子のように被りながらセックスをするシャオカン。 また、シャワーでのセックスシーンでは、 干ばつのため水不足でシャワーから水が出ないため、 上からペットボトルの水を代わる代わる振りかけて撮影を行っていたが、 その水もなくなり、撮影は一度中断。 その間、AV女優は自分の付けまつげが一つなくなっていることに気づいて探し始める。 水を調達し、撮影再開となったが、 ペットボトルの水が緑色に濁っている。 どこの水かは言及しないが、おそらく川の水なのだろう。 AV女優は、付けまつげを見つけられたのだろうか、 今度はついていることはついているのだが、 水に濡れてまつげが下にずれて不格好この上ない。



また、日本のAV女優(夜桜すもも)がペットボトルを ヴァギナに出し入れして自慰をするシーンでは、 いつのまにかペットボトルのキャップが中に入り込んでしまい、大騒ぎする。

AV作品といってもただセックスをすればいいのではなく、 きちんとカメラの位置を意識しなければならない。 そのため、手が邪魔だとか、足を広げろだとか、いちいち撮影中も注文が入る。 深刻な干ばつもお構いなしで撮影を敢行するところから、 人間の欲深さや性欲がしっかり見てとれる。 さらに、AV女優が気絶しているのにもかかわらず、AV撮影に入るクルーたち。 クルーにとってAV男優とAV女優は金を生み出す生肉でしかない。

物語では、シャオカンの男性性は常に脅かされる。 AV女優らの作った演技や、撮影というプレッシャーで、 シャオカンはインポテンツ寸前のところまで精神的にやられてしまうのだ。

ミュージカルシーンで年増の台湾人AV女優が女郎蜘蛛のように歌って踊るシーンがあるが、 このシーンで表現されるように、男を利用して生きながらえる女の姿からは 女性の性の底深さや、しぶとさ、したたかさを感じることができる。 別のミュージカルシーンでは、シャオカンが女装を、 シアンチーは男装をして踊るが、 ここでも男性と女性の本来の姿とは全く反対のイメージを提示し、 物語の女性の勢力が強いことがわかる。


混在する視点

映画としては、『西瓜』はロマンスやドラマといったジャンルとして存在し、 見る者は、シャオカンとシアンチーの関係の微妙な変化の物語を観客として見る。

映画=ラブロマンス、またはドラマ
映画内のAV撮影=一つの職業
AV撮影のクルー=映画『西瓜』の役者
監督ツァイ・ミンリャン=映画『西瓜』の監督
観客=『西瓜』の観客

しかし、それ以外にも別の視点を持つことができる。 例えば、この『西瓜』では、AV撮影のシーンが多く含まれているが、 映画全体としては、AV撮影が物語上の設定でしかすぎないものが、 別のとらえ方でも可能なことが浮き彫りになる。

映画=ドキュメンタリー
映画内のAV撮影=現実の撮影
AV撮影のクルー=AV撮影のクルー
監督ツァイ・ミンリャン=AV界の現状を捉える映像作家
観客=AV撮影のクルー、またはAV撮影の傍観者

このように、物語映画を見ていながらも、 AV撮影の現場にいるような、現実的な視点を持つことができる。


メタファー
本作では、小物がさまざまな意味を持ち、 平たんな物語に奥行をもたらす。 ここでは、いくつかの例を箇条書きにてあげる。


1.スイカ


冒頭では、あるAV作品の撮影として、 医者とナースのコスプレをした男女が出てくる。 女は、ちょうど股の部分に二つに割った大きなスイカを挟んでいる。 そのスイカの断面を、医者の格好をした男優(シャオカン)が指でほじくり回し、 女は快感の声を上げる。ここでのスイカは、 エロスの象徴である。特に、スイカのみずみずしさや赤さは女性の快楽やエクスタシーに結びつく。 ほじくり回すことで飛び散るスイカの実は、 真白いシーツを赤く染め、その光景はあたかも女性の出産シーンのようでもある。 実は、後にシャオカンと恋愛関係になるシァンチー(チェン・シアンチー)も、 スイカを腹に当てて妊婦のように振る舞い、 マンションの階段で股からスイカを出して分娩のまねごとをする。


2.トイレシーン


AV男優でありながらインポテンツに悩まされるシャオカンは、 閉ざされたバスルームの中ですり減った性欲を奮い立たせようと一人頑張っている。 すると突然ファンタジーに切り替わる。 このトイレシーンはミュージカルでコミカルに描かれているが、 ここではシャオカンは情けない男性の性器になっており、 胸部を露骨に強調したコスチュームで現れる女性の大群に頭が上がらない。 女という存在の性の奥深さにまいってしまったシャオカンの 現在の状況を見事に表現したファンタジーである。 しかし、最後には不能から立ち上がり、正常に戻る、という流れだ。


3.水

ストーリーでは台湾がひどい干ばつに見舞われていることになっている。 トイレやシャワーからは水が出ないので、 シアンチーは職場のトイレから水をくすねる。 また、シャオカンは、マンションの屋上に溜まった雨水で水浴びをする。 さらには、水水しいもの=スイカに異様に執着して、 シアンチーは冷蔵庫に頭を突っ込んでスイカを舐め始める。 ここでは、水の枯渇は、愛情の枯渇のメタファーになっている。 シアンチーもシャオカンも、愛に餓えた孤独な生活を送っているが、 水不足を題材に非常にうまく愛の枯渇を表現している。 例のAV女優がエレベータの中で気絶しているのを発見することで、 シアンチーは、シャオカンがAV男優であることを知る。 実はその直前、シアンチーは、女に水を飲ませようと冷蔵庫をあけた途端、 大切にしまっておいたスイカが転がって落ち、割れてしまう。 これは、後に続くバッドラックのメタファーだ。 スイカは、恋愛や愛情といった人間が生きるために必要なエネルギーの源泉なのだ。 このスイカが割れてしまうことは、 すなわち、シャオカンとシアンチーの関係にヒビが入ることを予兆する。


4.シルエットとタバコ

シャオカンとシアンチーがカニを料理して食べるシーンがあるが、 ツァイミンリャンは、シルエットを使ってラブシーンを表現した昔ならではの手法を使い、 裸で抱き合う二人を見せるよりも、 二人の関係をより親密に表現することを可能にした。 実際に観客は二人がカニを食べているところは見ず、壁に映ったシルエットのみ見ることができる。

二人がカニにむさぼりつき、指をなめるシルエットは、 非常にエロティックな部分がある。 さらに、このあとカニを食べて満腹の二人はテーブルの下に寝転がり、 シャオカンは食後の一服を楽しむ。 シャオカンは、シアンチーの足の指の間に煙草を滑り込ませ、 彼女の足を使って煙草を吸う。

昔の映画でよくあるが、 ラブシーンのあとはベッドに横たわってタバコをくゆらせる男女が常である。 この『西瓜』でも、何故かテーブルの下に寝転がり煙草をくゆらせるシャオカンがいる。 ツァイはメタファーを利用して、二人の親密さをエロティックに表現している。


分岐した道

ツァイミンリャンが本作で用いるのは、常に分岐する道である。 登場人物らは一緒のスペースを共有しても、 どこかその距離を縮められない隔たりがあり、 それが空間を使って表現されている。そのいくつかを下記にあげる。


@シャオカンと女(チェン・シアンチー)がマンションの廊下で遊んでいるシーン。


カメラは分岐する廊下を左右に収める。 左手では子供のころによくやったように、 シャオカンが壁を使ってアーチをつくる。 右手では、先に右手に歩いて行ったシァンチー(チェン・シアンチー)が滑ってよろめく。 同じカメラフレーム内で違う行動をする二人は 、一緒にいるにも関わらず隔てられていることを暗示する。 また、同じシーン内でシァンチーはすぐにシャオカンのいるフレーム左手に移動し、 スナックのようなものをシャオカンに食べさせるが、 二人の位置は非常にぎこちない。 壁を使って空中でブリッジしているその下からシァンチーは食べさせるのである。


Aさらに、シァンチーが初めてシャオカンを部屋に招いたときも、 フレームは常に左右に分岐したスペースに男女を配置する。

左手はキッチンであり、フレーム中央に位置した壁を挟んで右手はリビングだ。 左手のキッチンでは水入りペットボトルが 大量に入った冷蔵庫に水の代用品とされるスイカ(川から流れてきたもの)を収納する。 そして右手では、シャオカンがスーツケースを開けようと触っている。 シァンチーがスイカジュースをシャオカンに差し入れるが、 例のAV作品でスイカにうんざりのシャオカンは シァンチーが見ていない隙に窓からスイカジュースを流し捨てる。


B映画冒頭


地下道の長いロングテイク。 カメラは左右に分かれた地下道の中央に配置され、 左右から2人の女がそれぞれやってくる。 まず、右手からシァンチー(チェン・シアンチー)が歩いてくる。 遅れて左からは、ナース姿をして何故かスイカを抱えた女(夜桜すもも)が歩いてくる。 2人はもちろん知り合いではない。 すれ違い、各々の目的地へと歩き去っていく。 映画後半になってわかるが、このナース姿の女が持つスイカは、 AV作品の中で使われる。 このシーンは、もちろん映画の主要人物を登場させて これからのストーリーを予兆させるプロローグ的働きを持っているが、 それだけでなくシャオカンをめぐる二人の女を知らず知らずのうちに 同じフレーム内に登場させることで、 近くにいながらも全く関わりのない人間の隔離を表現している。


Cスーツケース

シァンチーは、暗証番号を忘れてしまって開けることのできないスーツケースに苛立ちを感じ、 クローゼットにスーツケースを押し込めてクローゼットに鍵をかけて さらにその鍵を衝動で窓から投げ捨ててしまった。 後ですぐに後悔したシァンチーは、鍵を取りに外まで行くが、 運の悪いことにちょうど道路の補正工事中で鍵はアスファルトの中に ぴったり埋まってしまって取り出すことができない。

そうなると、鍵がかかって取り出すことのできない スーツケースのことが気になってしょうがなくなるが、 そのもどかしさが非常にうまく表現されているシーンがある。 それは、シァンチーが鍵を投げ捨てた次の日のことだ。 外を歩いていると、偶然スーツケースを片手に歩く女性を見かける。


この女性は、シァンチーと同じ道を歩いているのだが、 何故かシァンチーはこの女性と反対側の歩道、 川を挟んで対岸を歩き、通路が二股に分かれた陸橋でもそうだ。 カメラは、長い間無言で歩くシァンチーとスーツケースの女性を追い、 常に二人の女を同じフレーム内に収める。 スーツケースのゴロゴロと転がる音をしばらく聞いていると、 開けることのできないシァンチーのスーツケースには一体何が入っているのか、 観客すらも知りたくてもどかしくなる瞬間である。

その後、鍵はシャオカンがアスファルトを掘り起こして取り出す。

すると、栓が抜かれたかのように、 鍵があった部分から水がじわじわとあふれ出てくる。

鍵穴と鍵は、以前から恋愛やエロスの象徴であったが、 ここでは二人の関係を予兆する非常にエロティックでウィットの利いたシーンとなっている。

非常に興味深いのが、 これでクローゼットを開けられることができたのではあるが、 結局スーツケースの暗証番号がわからないため、 最後までスーツケースを開けることができないまま映画が終わることだ。 途中、シャオカンが無理やり開けようともするのであるが スーツケースはびくともしない。 結局観客をもやもやさせたまま映画が終わってしまうのである。

参考文献
http://brooklynrail.org/2007/02/film/watermelon-time
http://www.brightlightsfilm.com/50/wayward.htm