監督 フランソワ・オゾン
出演 シャーロット・ランプリング
リュディヴィーヌ・サニエ
フランソワ・オゾンは、若いながらも現代フランス映画界の中で中心的存在として留まることなく映画制作を続けている。1999年の『クリミナルラヴァーズ』では、童話『ヘンデルとグレーテル』をベースに、殺人を犯した高校生カップルの顛末を描いた。実話に基づいて作られたこの『クリミナルラヴァーズ』は、10代の若者がセックスと、レイプ、殺人、監禁という狂気に出会い、徐々に変わっていく二人の力関係を巧妙に描き出した。また、『まぼろし』では、長年連れ添った夫を突然亡くした妻の喪失感と深い悲しみを静かに表現した。この『まぼろし』では、『愛の嵐』で一躍有名になった女優シャーロットランプリングを起用し、彼女の代表作を一新したといってもいい。この『スイミングプール』では、シャーロットランプリングは神経質な独身の女流作家というシャーロットとは似ても似つかない中年女性を熱演している。また、『焼け石に水』、『8人の女たち』とオゾン作品のミューズ、リュディヴィーヌ・サニエも本作で愛に飢えた娘役を演じている。この『スイミングプール』では、監督フランソワ・オゾンは観客に挑戦を試みる。どこまでが現実で、どこからが想像の世界なのか、見る者に考えさせる作品となっている。
クライムスリラー作家のサラ・モートンは、著名な作家であったが最近スランプに陥っていた。彼女は、出版社のジョンの勧めで、南フランスにある彼の別荘でしばらく気分をリフレッシュし、そこで執筆活動をすることに決めた。別荘は非常に美しく静かな田舎町にあり、庭にはプールも付いておりサラは非常に気に入っていた。創造意欲も掻き立てられ、うまく小説を書き始めたのもつかの間、ジョンの娘であるジュリーが別荘にしばらく滞在するとやってきた。せっかく書き始めた小説も、ジュリーのだらしなさや音楽、電話の声などが気になって集中できなくなるサラ。さらにジュリーの男関係には唖然とするばかりで、夜な夜な違う男を別荘に連れ込む。嫌悪感を露わにするサラではあったが、同時に彼女の美しさや若くて豊満な体に魅力を感じているのも確かだった。
サラは、ジュリーをネタに小説を書くことに決めた。そのため、ジュリーの日記を盗み読んだり、今までの態度から一転してジュリーを食事に誘い出し、母親や父親のことを聞き出そうとする。一方ジュリーは、サラが自分をネタに小説を書いていることを知ると、復讐に出る。サラが淡い思いを寄せているカフェのウェイター、フランクを別荘に連れてくる。ここでジュリーとサラはお互いの思惑を探り合う。サラが先に寝室に入ると、ジュリーとフランクはプールで泳ぎ始める。快く思わないサラは、ベランダからプールに石を投げ込むと、気づいたフランクはジュリーを突き放して帰ろうとした。激昂したジュリーは石でフランクを殴り殺してしまう。プールサイドの血痕に気づいたサラは、ジュリーにどうしてフランクを殺したのか理由を聞く。ジュリーはサラの小説のためだと答える。サラとジュリーは、フランクの死体をプールサイドに埋める。そしてジュリーは母親の小説をサラに託して、別荘を離れていく。サラはこの小説をもとに、自分の小説を書き上げた。書き上げた小説をジョンに見せにいくと、そこには偶然ジュリーが父親に会いに来ていた。しかし、サラが見たジュリーとは全く別人なのであった。
indieWIREのインタビューによると、この『スイミングプール』は監督フランソワ・オゾンにとって自伝的な映画だという。本作は、一人の作家が出版担当者の娘と共同生活をすることで起こる出来事を追っている。ここで、監督オゾンは自分の映画が観客の目に触れるまでのプロセスを提示したかったのだという。オゾンは、ストーリーを思いつくのには苦労しない。溢れんばかりのアイデアを持っているという。しかし、彼の中で重要なのは、ストーリーが確かなものか見極めることだそうだ。映画が出来上がるまでの少なくとも6ヶ月間、オゾンの集中や情熱を保つだけのインパクトや奥行がそのストーリーにあるのかどうか、それが一番重要なのである。映画ができてからも、宣伝やその他インタビューなどで繰り返しその作品のことを思い起こす必要がある。その重圧に耐えられるだけのストーリーを見極めることがオゾンにとって一番重要なのだ。
オゾンの作品は殺人が一つのテーマになっていることが多い。それについて彼は、人間の中にはだれしも狂気や殺意があるものだという。そのため、オゾンのような映像作家が代わりに人間のそういった感情を映像化する。ホラーやサスペンスといったジャンルが今も昔も人気なのはそのためであるという。
『スイミングプール』はある日カフェで一人の女優としていた会話から生まれたという。今回はオゾンひとりで脚本を書いたのだが、前作の『まぼろし』で脚本に携わったエマニュアル・バーンヘイムとはよく『スイミング・プール』の脚本について話を聞いてもらったという。というのも、オゾンの映画の登場人物は女性が多くを占めているため女性の視点を得る必要があったからだ。
もともと、ジュリー役は女性ではなく男性であった。しかし中年女性と若い男という構図はすでにフランス映画のクリシェになっていた。つい最近もミヒャエル・ハネケが『ピアニスト』で中年のイザベル・ユペールと美しく若いブノワ・マジメルを共演させていた。そのお決まりから外れるためにも中年女流作家と若い女性という設定にした。
音楽にはマーラーの交響曲第5番が使用されているが、このマーラーの曲はルキノ・ビスコンティの『ベニスに死す』にも流れている。『ベニスに死す』は、若き青年に魅了された老いゆく芸術家の物語であるが、登場人物の設定やストーリーとしても『スイミング・プール』に似通う部分が存在する。
また、最初は部分だけで徐々にメロディとして耳に入ってくる音楽もストーリーを展開する要素として働いている。初めはいくつかの音の集まりとしてしか認識することができないが、サラの小説が書き進められていくにつれて、音楽も徐々にひとつのメロディとして耳に入ってくる。そのため、現実と小説内の物語の区別がつきやすくなり、同時にサラの小説が進んでいることが無意識のうちにわかるのである。
『スイミング・プール』では、水着で横たわるジュリーやサラを舐めまわすかのように左右にパンする取り方が何回か見受けられる。これはなにも『スイミング・プール』だけでなく、オゾンの過去の作品によく使われる撮影技法である。女性のボディを左右にカメラを移動させて撮影することで、舐めまわすかのようなエロティックな見方を表現できてしまうのだ。逆に横たわるジュリーやサラを見つめる男たちは、下から上にカメラをパンするが、これはセクシュアリティの表れと同時に女性に立ちはだかる者、支配する者としての存在として感じることができる撮影方法になっている。
リュディヴィーヌ・サニエは、オゾンの作品に出演するのはこれで三回目になる。サニエは非常に若く、うまく役柄に溶け込むことができる。前作の役柄のインパクトが強すぎると、うまく次の役柄にマッチすることができなくなってしまう役者は多く存在する。例えば、スター・ウォーズのマーク・ハミル。3部作が伝説的ヒットとなり、ルーク・スカイウォーカーとしてのインパクトが強すぎてその後の作品には恵まれていない。それに比べて、リュディヴィーヌ・サニエは、サニエがこれまで演じてきた役柄を今回のジュリー役の中に見出すことができない。一方で、シャーロット・ランプリングはサニエの全く逆といえる。シャーロット・ランプリングは映画好きなら誰もが知っている。「あの」シャーロット・ランプリングが『スイミング・プール』という映画に出ている、という不思議な感覚に見舞われるのだ。『愛の嵐』で強烈な印象を残した彼女が、約30年の時を経てこのスクリーンに再び登場している。しかも30年前と変わらぬ美しさで。映画というものは、見る者が役柄に感情移入するのが常であるが、この『スイミング・プール』は見る者を物語から引きはがすことも可能にする。
オゾンによると、『8人の女たち』を取り終えた後、もっと少人数で親密かつシンプルな作品を撮りたいという衝動に駆られたという。そこで、オゾンと親交の深い女優を起用することを自然と考えていたが、まっさきに思い浮かんだのが『まぼろし』で一緒に撮影を行っていたシャーロット・ランプリングだという。リュディヴィーヌ・サニエについては、当初の予定ではジュリーは若い男であったが、サニエを起用することで母/娘の関係性を描く試みをオゾンは抱いた。また、サニエは彼の前作『8人の女たち』に出演していたものの、サニエ自身にはあまり焦点を当てなかったことが引っ掛かっていた、というのもあるそうだ。そして経験のある大女優シャーロットと、経験の浅いサニエを競演させることに非常に意義を感じていたそうだ。本作に出演したことがきっかけでサニエは少女から大人の女性としての存在感を示している。
本作では中年の女流作家サラと若きジュリーの関係が観客の思わぬ方向へ向かっていく。聡明だが老いていくサラは、ジュリーの浅はかさに悩まされながらも彼女の肉体の美しさに目を見張る。庭にあるスイミング・プールに横たわる彼女の肌に弾かれる水滴から目を背けることができない。ありきたりなレズビアンな関係かと観客は思いがちだが、二人の関係は一変して観客は驚く。ジュリーが殺人を犯したことで、彼女はサラに頼らざるを得なくなる。そこでサラはあれだけジュリーにいらだっていたにも関わらず、娘に接するかのように甲斐甲斐しく死体の処理をするのだ。
この『スイミング・プール』は作家サラの復活の物語といっていいだろう。連続して出版されてきたクライムスリラーがうまく書けなくなったサラは新進作家の出現でジョンという出版者にもなかなか相手にされなくなる。作品が書けず、おそらく恋愛関係にあるのだろうジョンにも疎まれ、内面的にも外面的にもスランプに陥った状態だ。ジョンの別荘で「空想」のジョンの娘ジュリーと対面し、母子のような絆を作ることで、物語を作り上げる。出来上がった作品を別の出版社と契約することで最終的にはジョンとの力関係も持ち直す。別荘に移った当初、ジュリーの奔放さやガサツさに悩まされ、耳栓をして寝るなどしてサラは耐えていたが、あれは観客に対するトリックと考えるのがよいのかもしれない。またはジュリーという架空の人間を作り出したサラの頭の中をのぞいていると考えてもよい。最後に出版社のジョンのもとを訪れる本当の娘ジュリーの姿を見たとき、観客は“たった一人の女性の空想の世界をのぞいたのか”と気づくのである。
プールは物語が生まれる場所として存在している。しかもその物語とは、サラのいつも書いているシリーズものではなく、彼女の本当の書きたい物語だ。言い換えれば、このプールの存在はただのプールでありながら、実に巧妙にサラの心の動きを表しているのだ。別荘にきた当初、プールには汚れをよけるための黒いカバーが被せてあった。サラの創作意欲を覆い閉じ込めているかのように。来てすぐにサラはシリーズ化しているクライムスリラーを書き始めるようになる。しかし、プールにはまだカバーがかかったままだ。そしてジュリーもまだやって来ない。ある程度小説が進んだところで、サラは何気なくプールのことが気にかかり、プールのカバーをまくしあげてプールの中を確認する。おそらくここから彼女の頭の中のストーリーがスタートする。その深夜、ジュリーが突然やってくる。ジュリーはプールのカバーを「半分」だけ開けて全裸のまま泳ぎ始める。おそらくサラの中で物語の要素ができ始めたといっていい。さらに別の日にはプールのカバーはすべて取り払われ、管理人のマルセルに頼んでプールに浮かぶ落ち葉をすべて取り払う。プールが美しくなったとき、サラはパソコンに向かって「JULIE」という物語を作り始めるのだ。
オゾンはフランス人であるため、彼の母国語はフランス語である。しかし、設定としてサラは英国人の作家であるため、結果的に映画は英語が主となる。このことに関して、監督オゾンは自分の母国語ではない言語での制作に非常に楽しんで取り掛かったという。また、脚本はフランス語で書かれたが、英語にも翻訳された。だが、フランス語にしかない表現など、微妙に英語とはニュアンスが異なるセリフが出てくるたびに、出演者と話し合って英語のセリフを作ったという。また、シャーロット・ランプリングがフランス語も話せることから、特に撮影に支障があったわけではなかったそうだ。
『まぼろし』とは違い、今回の作家サラ・モートンはシャーロットとは全く異なる人格の役柄だった。そのため、コスチュームデザインを担当したPascaline Chavanneとともに、女流ミステリー作家のパトリシア・ハイスミやパトリシア・コーンウェル、ルース・レンデルといった作家たちの写真を見比べたという。そして彼女たちに共通することは、みな髪が短く男勝りな印象があることで、70年代の女性を彷彿させることだった。そこで、シャーロットも髪を切ることにしたという。ただしそれはクライムスリラー作家のサラという最初の設定だけであって、本作の物語が進むにつれサラの心の変化が起こり、見た目や服装もよりフェミニンになっていく。男のような服装をし、肌の露出を避けていたが、後半では水着になって肌を露出したり、マルセルに裸を見せて挑発したりする。前半では観客のセクシュアリティの対象が当然ジュリーであったはずが、後半では必ずしもそうではなく、中年のサラのセクシュアリティに焦点が当たっていく。
http://www.francois-ozon.com/english/interviews/swimming-pool.html
http://www.futuremovies.co.uk/filmmaking.asp?ID=23
http://www.indiewire.com/people/people_030701swimming.html
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