監督のジェーンカンピオンは女性監督として、
そしてニュージーランド出身の監督として最も名誉を与えられた監督の一人として挙げられる。
彼女の映画の主演の多くが女性であることからもわかるように、
フェミニストとしていくつもの女性像を創り出し、
フェミニズム論においても彼女の作品は言及されることが多い。
彼女の代表作は1993年にカンヌのパルムドールや
アカデミー脚本賞を始め各賞を総なめにしたこの『ピアノ・レッスン』であるが、
その勢いはとどまることをしらない。
日本でも人気のあるメグ・ライアンを主演にキャストした官能的スリラー
『イン・ザ・カット』では、正統派のメグ・ライアンから新たなる一面を見出し、
最近では『めぐみ−引き裂かれた家族の30年』のプロデューサーを務めるなど、
精力的な活動を続けている。
![]() エイダ(ホリー・ハンター)は娘フローラと共にスチュワート(サム・ニール)に嫁ぐために、 一台のピアノとともにニュージーランドにやってくる。 エイダにとってピアノはしゃべれない声の代わりだが、 スチュアートはピアノを家に運ぶには重すぎると、浜辺に置き去りにする。 マオリと生活をしているベインズ(ハーヴェイ・カイテル)は、 自分の土地とピアノを交換し、自分の家にピアノを運ぶ。 ベインズはエイダに、ピアノをレッスンするごとに黒鍵を一つずつ返し、 最終的にピアノをエイダに返すと言う。 レッスンを重ねるごとに大胆になるベインズの求愛にエイダは気持ちが揺らぐ。 スチュワートは、エイダにベインズと会うことを禁じるが、 エイダのベインズに対する気持ちを刻印したピアノのキーを フローラがスチュワートに渡してしまったことから、スチュワートは嫉妬に怒り、 エイダの指を切り落とす。 その後エイダとフローラはベインズと島を離れることになる。 『ピアノ・レッスン』は商業的にも成功し、 学術的にも多くの議論の的となっている。 学術的に言えば、オーストラリア映画とは? ウィメンズフィルムとは?といったことがこの『ピアノ・レッスン』のリリースで問題視された。 『ピアノ・レッスン』はオーストラリア映画である、というと語弊がある。 なぜなら、監督のカンピオンは教育はオーストラリアで受けているものの、 生まれはニュージーランドであり、 主演のホーリーハンターとハーベイカイテルはアメリカ人、 子役のアナ・パキンはニュージーランド人である。 何より、製作はオーストラリアとフランスの合作であり、 撮影はニュージーランドのロケーションを使っている。 また、映画の中でマオリの人々も出てくる。 ![]() 『ピアノ・レッスン』がウィメンズフィルムであるのか? という問いに対して意見は大きく二つに分かれる。 一つには肯定的な意見であり、その理由として、 主人公エイダの能動的姿勢がある。 エイダはニュージーランドに住むスチュワートの元へ嫁いでいくのではあるが、 この時代一般的に妻は夫の所有物とみなされていた。 しかしエイダはスチュワートに従属的な態度をとるどころか心を開こうとせず、 決して流されない主体性をもって自分の信じる道を行く。 そのため、ベインズに心惹かれたエイダはそれを隠そうとはせず、 大胆にもベインズに愛を求めるのである。 しかし、もう一方で否定的な意見もあり、 それはベインズの強引な性的アピールに惹かれていく部分にある。 ベインズからピアノを取り戻すために、 エイダは彼にレッスンをすることになるのだが、 次第にエスカレートし、ベインズは肉体関係を望む。 始めは拒むエイダであったが、最後にはベインズを受け入れることになり、 その姿が実にマゾヒクティックである、とも言われる。 エイダにとってピアノとは?エイダは何故しゃべろうとしないのか? エイダがしゃべれるのにしゃべろうとしないのは、 かえって彼女の強い意志の表れでもあるように感じられる。 彼女が言葉を発するのは、ベインズに愛をささやく時のみであり、 それ以外に「言葉」を重要なコミュニケーションツールとしては考えていない。 エイダにとって「言葉」は発した途端に、 つまらないものとなり、決して考えていることと完全には一致しない。 エイダを取り巻く二人の男はピアノに対して正反対の行動を起こす。 ベインズはピアノを引き取り、全裸でまるで女を抱くかのようにピアノをなで、 ピアノを弾くエイダを見つめる。一方スチュワートはエイダとピアノを最初から遠ざける。 エイダにとってピアノとは彼女自身であり、 彼女の感情や言葉はピアノの音となって、旋律となる。 そのため、スチュワートに斧で指を切られる行為は、 エイダの感情を否定することになる。 しかし一方でピアノを前のように弾くことが不可能になったエイダにとって、 コミュニケーションツールとしてのピアノとの関係は断絶されてしまったことになる。 最後にベインズと島を離れるとき、海にピアノを捨てる。 この時、エイダはピアノとともに海に沈もうとも考えるのであるが、 結局生きる道を選ぶ。つまり、新たに自分の口を使って言葉を話す選択をするのである。 |